元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

人はなんのために勉強をするのか?

 今日もとんでもない「強風」が吹き荒れていました。が、午前中は「農学講座」に参加していたので、ちょうどよい塩梅でした。

 今日は、アブラナ科の野菜、特に大根やカブの葉や根を食べる「キスジノミハムシ」の対策と育苗方法について学びました。農業には、専門用語も多いので、理解が追いつきません。(笑)

 例えば、早生(わせ)・中生(なかて)・晩生(おくて)などの表記が見られます。これは同じ野菜の中で他の品種と比べたときの収穫時期までの早さを指しているのだそうです。早生が収穫時期が来るまでが一番早く、中生が続き、一番遅いのが晩生となります。

 今日学んだ「キャベツ」や「白菜」は、「葉の多さ」による区別となり、葉が少なく成長が早いのが早生。葉が多く大きくなるのが「晩生」と呼ぶのだそうです。そうだったんだぁ~。(笑)

農学講座。落ちこぼれそうです。(笑)

 ところで、立命館アジア太平洋大学学長、出口治明さんがその著書『人生の教養が身につく名言集 (単行本)』(三笠書房)の中で、「人はなんのために勉強をするのか?」について書いています。確かに、インプットとアウトプットはセットだと思います。アウトプットしないと新しいものが入ってこないし、アウトプットするためには、自分なりに理解しないと出来ないため、いつの間にか自分のものになっている気がします。

・・・「専門のことであろうが、専門外のことであろうが、要するに物事を自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。たったそれだけのことです。そのために勉強するのです」(山本義隆

山本義隆さんという人がいます。 

大学というアカデミズムに属さない在野の科学史家として、『磁力と重力の発見』(みすず書房)などすばらしい本を何冊も出されています。

長いあいだ、予備校の物理学の名物講師としても活躍された人です。 

その山本さんが、とあるインタビューで「人はなんのために勉強をするのか?」という問いへの答えとして述べられたのが、「自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため」という言葉。 

 

まさにその通りだと思います。

インプットは一所懸命するのに、そこでストップしてしまう人をときどき見かけます。

考えるという作業をほとんど行なわず、アウトプットをからきししない。

「勉強する」、あるいは「学ぶ」という人間の営為は、インプットとアウトプットがセットになっているのです。 

この2つをセットでやらないと、せっかく知識をインプットしても、それはその人にとって、血肉にはなりません。

下手をすれば、時間とともに忘却の彼方にいってしまうことになるでしょう。 

 

ところで、アウトプットとは何か。 

その基本は、母語(マザータング)による「言語化」です。

しかも、インプットしたままの他人の言葉ではなくて、それを自分の頭で咀嚼して、自分の言葉に引き直して言語化する。

その作業を経ることによってはじめて、自分の頭の中の「情報のタンスの中の引き出し」(自分の辞書)を整理することができます。

整理すれば、引き出しやすくもなります。

必要なときに、さっとその知識を取り出せるわけです。

逆に、言語化の作業を経ないと、情報は頭の中の「タンス」の中でグチャグチャになったままです。

場合によっては、タンスの外にはみ出しているかもしれません。

これは別の言葉でいえば、自分の「血肉」になっていない状態。

モノになっていない。

だから、適切に取り出せないばかりかすぐに忘れてしまうのです。