元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

「正しい」かどうかではなく「楽しい」かどうか、です。

 昨日、今日と埼玉県北本市での会議に参加してきました。北海道と東北6県の参加者が集まりましたが、なんとか台風の影響から逃れて、全員無事に帰宅できたようです。めでたし。めでたし。(笑)

安達太良PA「醤油ラーメンセット」まいう~

 ところで、私たちは、自分の人生を「なるべく正しく生きようと」と思いがちですが、小林正観さんがその著書『この世の悩みがゼロになる (だいわ文庫)』の中で、『「正しい」ということを人生の中に掲げて生きてきた人は、多分つらかっただろうと思います。「正しい」かどうかではなく「楽しい」かどうか、です。自分がその生活をしていて楽しいかどうか、それを基準にものを考えるということが、実はとても重要なことのように思えます。』 と説いています。

・・ある方が、講演会のあとのパーティでこのような質問をされました。

「私の友人がついこの間、がんで死にました。その人は『世の中には悪いことをして人にイヤがられ、迷惑をかける存在でありながら楽しく愉快に生きている人がいるというのに、私は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな病気になって死んでいかなければならないのか。理不尽ではないか。私が何か悪いことをしたというのか』と言いながら死んでいきました。そのことについて伺いたいのです」と言いました。 

 どうしてそんな不公平なことが起きるのかというのが質問の趣旨でした。私はこう答えました。 

「がんになって、あと数ヵ月の命と言われたとき、例えば、自分の好きな絵を描いて何十点か遺そうとか、作曲したり、好きな曲を演奏して録音して遺そうとか、本を書いたり短歌や俳句を書いて遺そうとか、そういうふうに自分の存在証明を遺すということで気持ちを切り替えた人たちがいます。

 そのような人たちには、宣告された期間が過ぎても死なない、というケースが多々ありました。あと三ヶ月と言われた人が半年も生きていたり、半年と言われた人が一年も生き延びているという事実に驚き、病院で検査をすると、がん細胞が消滅している、というのです。そういう例が、世の中には多々あるようなのです。 

 今の方のような、『ほかにもっと悪いことをしている人がたくさんいるのに、その人たちには何も起こらなくて、何も悪いことをしないで正しく生きてきた私にはなぜこんなこ とが起きるのか』という質問は、自分の運命を恨み、呪って、受け入れなかったことのストレスゆえのものだったのかもしれません。自分が『正しく」生きてきたかどうかではなく、問題は、『楽しく』生きてきたかどうかなのです」 

 「正しい」ということを人生の中に掲げて生きてきた人は、多分つらかっただろうと思います。「正しい」かどうかではなく「楽しい」かどうか、です。自分がその生活をしていて楽しいかどうか、それを基準にものを考えるということが、実はとても重要なことのように思えます。

 

好かれる人は皆、自分から好きになる。

 今日は午前中、明日の出荷野菜の準備をして、午後からは「休憩」ということで、「水滸伝」を読み耽っていたら、村民1号が突然「里芋」定植に現れました。秋の芋煮会に間に合うか心配していましたが、なんとかなりそうです。(笑)

梁山泊軍の兵站の責任者が暗殺されてしまいました・・・ヤバいよヤバいよ

 ところで、「友達が出来ない」「友達が欲しい」と悩んでいる人がいます。その人は、友達が出来ることを待ち望んでいますが、やはり「自分から動く」ことが必要だと思います。ではどう動けばいいのか。

 岡崎かつひろさんがその著書『すぐできるのに99%の人はやっていない「好かれる人」になる55のコツ』(三笠書房)の中で、「好かれる人は皆、自分から好きになる」と説いています。抜粋して引用します。

・・「返報性の原理」を知っていますか?「返報性の原理」とは、簡単に言えば、いいことも悪いことも「やったことはやり返される」という法則です。

 たとえば悪口を言われたら、あなたも悪口を言いたくなりませんか? 逆に褒められたら、自分からも褒めたくなるし、優しくされたら、優しくしたくなるものです。

 だから、好かれたいと思う人は、自分から好きになることが大事。あなたが好きになった分だけ、まわりからあなたは好かれることになります。

 では、どうしたら人を好きになれるのか?その一番いい方法は、「人のいいところを見る」ということでしょう。私たちは気づくと、マイナスばかりを気にしてしまうものです。

 たとえば、服にシミがついていたら、シミばかり気にします。どんなに素晴らしいお店でも、汚れや嫌な接客が一つでもあると、そればかり気になります。人に対しても意識していないと、悪いところばかり目についてしまうのです。

 だから、意識して人のいいところを見るようにしましょう。どんな些細なことでもいいのです。声が明るいとか、笑い方が素敵とか、食事のマナーが美しいとか、服のセンスがいいとか、なんでもかまいません。もしかしたら、自分から見たら素晴らしく見えなくても、他の人からしたら素晴らしく思えることもあります。自分の価値観に固執せずに、人のいいところを探してみて、好きになる努力をしてみましょう。

・・ある勉強会でのこと。私たちは4人で勉強会をおこなっていましたが、場所はそのうちのお一人のご自宅でした。ただ自宅といっても、実業家の方だけあって、海の見える風光明媚な立地に建つ相当な豪邸です。

 私と主催者のほかのメンバーは、書道家の先生と絵本作家の方でした。食事は、主催者の奥様の手料理。こだわったパンと野菜、さらに手作りのハンバーグを間に挟んだハンバーガー。

 私が「うまい!いくらでも食べられますね」と食事に一生懸命になっていると、書道家の先生が急に席を立ちました。「どうしたんだろう?」皆、先生に視線を向けます。

 走っていった先はキッチンでした。嬉しそうな顔をして戻ってこられると、「本当においしくて、この気持ちをすぐに伝えたかった」と、奥様に感想を伝えに行ったと言うのです。

 子供のように自分の気持ちに正直で、すぐに行動する。それを見て私は「素敵な人だな」と思いました。案の定、食事の後に奥様と話をすると、「先生が走って来てくれて嬉しかった」と話されていました。

 大人になると、気持ちよりも世間体とか正しさを優先してしまいますね。でも、これでは可愛くないでしょう。好かれる人は可愛いのです。いつまでも、子供心を持って無邪気に過ごせる人こそ可愛いし、可愛がられる人なのです。書道家の先生のように、気持ちを素直に表現して、行動できる人になりましょう。

 

自分をなくして他者のために生きるのは、誰の人生?

  今日は久々に太陽の光を浴びました。やっぱり、気持ちいいですよね。日本人は、「太陽の民」です。(笑)

 作業は、野菜を出荷した後に「湿気対策」「ニンジンの播種」「枝豆の定植」等を行い、「ベスコングルメ」の状態です。(笑)

「夏蒔きニンジン」を播種

 ところで、昨日のブログでは、「ずるい人にとって、弱い人間は決して尊敬や感謝の対象にはならない。どんなことをしてあげても尊敬や感謝の対象にはならない。固有の人間として扱われない。利用の対象にしかならない。」と掲載しましたが、「グリーンテラスな日記」さんが、そのブログの中で、「必要とされることで、喜んでばかりもいられません。必要でなくなれば、役にたたなくなれば不要です。不要なものはゴミですから、捨てられて終わりです。」と説いています。なるほどです。抜粋して引用します。

・・誰かに必要とされたい、役に立ちたいと思うことは当然のことです。

 なぜなら必要とされることで、まずは居場所を作れます。自分の居場所がどこにもなければ人は生きていけません。この世に生きていてはいけない自分だとなり死にたくなります😭

 しかし、必要とされることで、喜んでばかりもいられません。必要でなくなれば、役にたたなくなれば不要です。不要なものはゴミですから、捨てられて終わりです。

 つまりただの物。人間ではなくて、ただの道具だったことになります。他者の道具とはいかがなものでしょうか?

 必要とされる居場所を作ることは、一時凌ぎで、心理学では自我理想といいますが、そこから本当の自分のやりたいことを探して見つけていくのです✨

 自分のしたいことをして、それが誰かの役にたつのであれば嬉しいことです。しかし、自分なくして他者のために生きるのでは、誰の人生でしょうか。

 あなたにしか頼めない!あなたしかいない!唯一無二の貴重な人になれたら、

素晴らしいことですね。

 

こんなに頑張っているのに、報われないのはどうしてなのか。

 やっと雨が止みました。が、まだ日差しは戻りません。畑のぬかるみを避けつつ、明日出荷の野菜を収穫しました。午後は、読書の時間です。(笑)

「バジル」豊作です。(笑)

水滸伝第15巻。熱い漢たちが、雄々しく命を燃やして散っていきます。

 ところで、「こんなに頑張っているのに、報われないのはどうしてなのか」と嘆いている人がいます。その「頑張り」がどこで間違っているのだと思います。加藤諦三さんがその著書『「なんとなく不安」が消える本』(PHP文庫)の中で、『その原因は、心の中に潜む「弱さ」や「劣等感」にあるのかもしれません。』と説いています。抜粋して引用します。

「受け身の人」の人生はなぜうまくいかないのか

 「自分はこんなに被害を受けた」と言ってばかりいる人がいる。しかし、もしそれが本当なら、その被害を乗り越えて、自分が今日あることを誇れるはずである。それだけの困難を乗り越えて今日、自分があるのは、その人の素晴らしい力の証明なのである。

 そのように自分の過去を誇れないで、被害を受けたことばかり言っている人がいる。その人はもしかすると、実際にはそれほど被害にあっていないのかもしれない。いつまでも文句をいう人は、単に神経症的愛情要求が強いから、被害にあったように思い込んでいるというだけのことかもしれない。

 もう一つの可能性がある。受け身の人である。相手との関係を常に被害者意識で解釈する。そうでなければ、周囲の人から受けたひどい仕打ちを思いだしながらも、「それを乗り切った私」に対する誇りがあっていい。

 人生にはいろいろなトラブルがある。問題は、そこから何を学ぶかということである。「あの人からこんなひどい仕打ちを受けた」ことから、「自分は何を学んだか」ということである。

 レジリエンス(逆境を乗り越える力・精神的回復力)のある人は、どのような経験であれ、自分の経験から多くの情緒的なものを獲得する。ヒギンズは「レジリエンスのある人は、少ないガソリンで走行距離が長い」と言っている。ガソリンが体験である。いつまでも文句を言っている人は、ガソリンが満タンなのに走らない車みたいなものである。エンジンが故障している。

 ヒギンズの著作に出てくる少女シーボンは、いつも母親から「お前は腐っている、お前は馬鹿だ」と言われていた。でもシーボンは、いつも聞こえてくるその声を信じなかった。ある日本人女性は、母親に「お前は学年一のブスだ」と言われて立ち上がれないほど傷ついた。そしてそのひどい母親の支配から逃れられなかった。シーボンは、そこがすごい。

 普通の人は、その破壊的メッセージで生涯を苦渋に満ちたものにしてしまう。おそらく、本当にひどい親だから「信じなかった」のであろう。恩着せがましい親なら、先ず自分は素晴らしい親だと子どもに思い込ませて、その上で「お前のために、私は苦労している」という。

 父親の性的虐待が始まってからも、「私はいつも私の人生を計画していた。私はいつもそこから出ようとしていた。もっとよいところに行こうとしていた」と言う。シーボンは、7歳になる時には「どこかもっとよいところがあると知っていた」という。

 健康な人は、環境の勝利者である。働き、愛し、遊び、そして生じてくる問題を効果的に解決する。レジリエンスのある人は、自分は過去に犠牲者であったと認識しながらも、同時に自分を今は犠牲者と見ていない。むしろ、それよりも自分は幸せのエージェント「agent=代表者」であると信じている。

 

過酷な環境を生き残った者の誇り

 「私は自分を犠牲者と見ない。私は生存者だ。最善を尽くして困難と戦い、栄えたもの以上の存在である」。

 これはシーボン同様、ヒギンズの著作にたびたび出てくる少年ダンの言葉である。ダンは父親の殴打が怖かった。殺されると思った。その過酷な環境で生き延びたダンは、「私は成功者だ、犠牲者ではない」という。「犠牲者とは、過酷な逆境の中で立ち上がれない人である。痛みと苦しみに閉じ込められている人である。私の人生に起きたことではない」。全てを吞み込む洪水のような残酷さの中で、彼は殺されるよりも強くなることを選択し、生き残った。そして彼は自分に誇りを持った。ンは「私はどのようなことでも向き合える」と言っている。

 

逆境から逃げる人の末路

 私は以前、『人生の重荷をプラスにする人、マイナスにする人』(PHP文庫)という本を書いた。その本に書いたことの一部を、レジリエンスという視点から考えてみたいと思う。

 すべての人が周囲の人からひどい仕打ちを受けているわけではない。自分がひどい仕打ちを受けてしまうのは、もしかしたら自分の側にも何か問題があるからかもしれないという反省が必要である。その反省がなければ、いつまでも同じようなひどい仕打ちを受け続けることになる。

 確かに世の中には、一生懸命働いても一向に経済的に楽にならない人が沢山いる。真面目に生きていながらも、なぜか不幸が続いてしまう人も多い。贅沢もしないでただただ真面目に働き、節約して貯めたお金を、誰かに騙されて吸い上げられてしまうような人がいる。コツコツと働き、毎月几帳面に貯金をし、貯まったところで、親戚から「お金を貸してくれ」と頼まれて貸してしまう。そしてその後、お金は返ってこない。またコツコツと生真面目に働いて努力してお金を貯める。

 しかし今度は、事業に失敗した兄から頼まれて貯金をはたいてしまう。貸したくないのだが断われない。一生真面目に働きながらも、財産といえるようなものはない。しかもそれだけ人のために尽くしながら、誰からも感謝されない。親戚の人に会っても、彼らは「有難う」一ついわない。兄に会っても「迷惑をかけたな」という言葉一つない。こんな時に「あんなにしてあげたのに、有難う一つ言わない」とその親戚の人や兄を恨んでいても、事態は一向に改善されない。おそらくまた同じような何かが起きる。

 たとえば娘の夫が仕事を始めるに当たって、借金の連帯保証人になってくれと頼まれる。「絶対にお父さんには迷惑をかけません」と言われて、よく調べもしないでハンコを押す。そして結果はどうなるか。たいていは自分たちが住んでいる家屋敷まで、借金のカタに取られてしまう。

 一生真面目に働き、何も悪いことをしないで、人のためにお金を使い、その上で周囲の人に舐められて、軽く見られている人は多い。コツコツ働いたお金を全て、人に吸い上げられて、それでいながら誰からも尊敬も感謝もされないという人がたくさんいる。

 離婚した親戚の子どもの養育費を、毎月送りながら生活していた人がいる。真面目で正直で努力家である。自分は飲みたい酒も飲まないで節約しながら、姪をせめて高校だけは卒業させてあげなければと、頑張って仕送りをしていた。それだけ日々人のために努力しながらも、姪は卒業しても感謝を表さない。会ってもやはり「有難う」を言わない。その母親も「有難う」を言わない。それどころか、高校を卒業してから仕送りを止めたことを不服にさえ思っている様子である。

 この人はどこかで「自分の生き方に問題があるのではないか」という反省をしなければ、またこのひどい仕打ちは繰り返される。死ぬまで働いて、死ぬまで搾取され続ける。

 先に挙げた少女シーボンは、搾取され続ける側から抜け出すために大切なことを述べている。「私の持っているものの中で最大のものは、決意である」。死ぬまで働いて、死ぬまで騙され続ける人には、この決意がない。今、述べたような真面目な人で、働き続けて騙され続けて、その上に周りの人から馬鹿にされ続けてしまうのは決意がないからである。

 「やり返そう」ともせず、被害者意識で物事を解釈している人は、もともと自分が正面から直面しなければならない困難と戦わなかった。逆境を乗り越えたのではなく、むしろ逆境から逃げた。自分が周囲の人に気に入られたいから、無意識のどこかに自分から、ずるい人を引き寄せた部分があったに違いない。

 経済的に利用されてしまう人、心理的に虐待される人、すぐに騙される人、それらの人にはやっぱりどこか弱さがある。その弱さに、ずるい人から付け込まれるのである。まさに、ずるさは弱さに敏感である。

 

戦わない人は舐められる

 世の中にはずるい人は沢山いる。ずるい人は皆、弱い人を食い物にして生きていこうとしている。弱い人は、基本的には淋しい人なのかもしれない。そこで相手の好意が欲しくて、ついつい失礼な要求にも「いい顔」をしてしまう。断わって「冷たい人」とか「利己的な人」と言われるのが怖い。

 戦わないでいると、自分が舐められていることに気がつかない。嫌われることが怖くて、他のことは考えられない。ただ「好かれよう」とばかりして、相手を見る心のゆとりがない。

 

淋しいから誰とでもいい関係でいたい。

 そういう人は自我の確立がなくて、孤独に弱い。アメリカの心理学者ダン・カイリーは「孤独は商業主義のカモである」と言うが、「孤独は商業主義のカモ」であるだけではない。「全てのずるい人のカモ」である。

 たとえばこうして長年、人から利用されてばかりいる人が、「自分は愛情飢餓感に苦しめられているのだ」「自分は心理的成長に躓いている」などと気がつかないかぎり、また同じように誰かに利用される。

 これらの事態は、レジリエンスのある人が成長する過程で乗り越えなければならない逆境とは違う。むしろ本当に直面しなければならないことは、自分はこれらの人々に軽く見られているという現実である。

 困難を乗り越えるということは、人から嫌われたくない、気に入られたいという自分の弱さに直面して、それを乗り越えるということである。自分について熟知している人が、困難な環境を乗り切れる。厳しい状況を切り抜ける。

 淋しい人は「お金では感謝も尊敬も得られない」ということが分からない。感謝や尊敬が欲しくて、それを求めてお金を使ってしまう。「頭を下げても感謝も尊敬も得られない」ということが分からない。今、述べているような人と、レジリエンスのある人とどこが違うかというと、それは劣等感があるかないかである。いつも騙される人、いつも軽視される人には、深刻な劣等感がある。だから、相手のそれらの行動を許してしまう。

 

全ての行動はその劣等感を癒すための行動である。

 その点に気がつき、レジリエンスのある人に学ばなければ、地獄から抜け出すことは出来ない。カモにされて利用されていることを、仲間から頼られていると解釈する。感謝や尊敬が欲しくて、やたらに頭を下げてしまう。周りに集まってくるのは質の悪い人ばかりである。だからお金を使っても使っても、皆から軽く見られるのである。頭を下げても下げても、皆から心の中では侮辱されるのである。

 ずるい人にとって、弱い人間は決して尊敬や感謝の対象にはならない。どんなことをしてあげても尊敬や感謝の対象にはならない。固有の人間として扱われない。利用の対象にしかならない。

 

上から叫ぶのではなく、相手のいるフロアまで降りていく。

 今日も雨が続いています。結果、連休になりました。おかげさまで読書の進むことと言ったら。(笑)

隣りの畑は冠水。

高畝にしたので、かろうじてセーフ。

 ところで、休みを利用して、来月の講話原稿を考えていましたが、川岸宏司さんがその著書『なぜ、あの人の言葉は心に響くのか』(大和出版)の中で、『「伝わらない文章」に共通する特徴は1つだけです。書いている本人は地上にいるつもりなのに、言葉がビルの屋上から降りてきていない。本人の頭の中では映像が再生されているのに、読み手の頭には何も映らないのです。』と説いています。どういうことでしょうか。抜粋して引用します。

・・「コミュニケーションが大事」と言われて、明日から何をしますか? 何もしなければおそらく何も変わりません。では「朝、出社したら最初に会った人の目を見て、笑顔で名前を呼んで『おはようございます』と言ってください」と言われたら。行動できそうな気がしませんか?

 言っていることは同じ。でも、片方は空気のように通り過ぎ、もう片方は身体が動く。この差が「具体の階数」です。

 私、実は10000本以上の投稿を裏側として書いてきた経験があります。同時に、自身のアカウントで何千本と投稿をつくり、多くの人に共感のお声をいただいてきました。

 文章を書いてきて、「伝わらない文章」に共通する特徴は1つだけです。書いている本人は地上にいるつもりなのに、言葉がビルの屋上から降りてきていない。本人の頭の中では映像が再生されているのに、読み手の頭には何も映らないのです。

 

 私はこの技術を「具体の階段」と呼んでいます。上図のように具体の階段には3つのフロアがあり、多くの人は3階に住んでいます。頭の中では1階の映像が再生されているのに、言葉にするときに3階から投げ落とす。エレベーターで降ろさずに、屋上から叫んでいる。だから届きません。

  

階段を降りる「3ステップ変換法」

この「具体の階段」、文章だけの話だと思っていませんか? 実は、会議での発言、部下への指示、プレゼン、日常会話......すべてに使えます。「伝わらない」と感じる場面のほとんどは、言葉が3階にいるだけです。

では、どうやって1階まで降りるのか。私が実際に使っている方法をフレームワークにしました。3つのステップを踏むだけで、誰でも「3階の言葉」を「1階の映像」に変換できます。

 

ステップ1:概念を書き出す

 まず、伝えたいことを1文で書いてください。「思いやりを持つ」「日々改善する」「信頼が大事」......抽象的で構いません。ここでのポイントは、「自分が本当に言いたいことは何か」を1文に絞ること。多くの人は、伝えたいことが5つも6つもある状態で話し始めます。だから散らかる。まずは1文。たった1文でいい。これが階段を降りるための「出発点」になります。

ステップ2:「誰が、いつ、どこで、何を」に変換する

 書き出した1文に、4つのWを当てはめてください。Who(誰が)、When(いつ)、Where(どこで)、What(何を)

 たとえば「思いやりを持つ」という概念。これに4Wを当てると「雨の日に、玄関で、相手の傘を受け取る」になります。3階にいた言葉が、2階まで降りてきた感覚がありませんか?

 このステップで大事なのは、「動詞」を入れること。「思いやり」という名詞は映像になりません。でも「受け取る」という動詞が入った瞬間、身体が動き始めます。概念を行動に変える。それがステップ2の役割です。

ステップ3:五感を1つだけ足す

 ここが最後の仕上げです。ステップ2で作った行動文に、「音」「温度」「匂い」「表情」「触感」のどれかを1つだけ足してください。

 「雨の日、玄関先で、びしょ濡れの傘を受け取りながら、タオルをそっと差し出す」。「びしょ濡れの」で触感が入り、「そっと」で動作の温度が入りました。たった数文字を足しただけなのに、読み手の頭に映像が流れ始めます。

 注意点として、五感は「1つだけ」で十分だということです。全部盛りにすると、文章がくどくなります。匂いだけ、音だけ、温度だけ。1つあれば、読み手の脳が勝手に残りの感覚を補完してくれます。

 

実際にもう少し変換してみます。

「信頼が大事」(←3階)

・ステップ2:「約束を守る」(←2階。まだぼんやり)

・ステップ3:「会議の5分前に資料を開いて、最初の一言を声に出して練習してから部屋に入る」(←1階)

「成長し続けよう」(←3階)

・ステップ2:「毎日学んだことを記録する」(←2階)

・ステップ3:「寝る前に枕元にあるノートを開いて、今日学んだことを3行だけ走り書きして眠る」(←1階)

どうですか? 3階にいた言葉が1階まで降りてくる感覚、わかるはずです。

 

「伝わらない」の正体は情報量じゃない

 以前、ある経営者のスピーチ原稿を書いたときの話です。最初にいただいた原稿はデータと数字がびっしり。売上推移、前年比、市場規模。情報としては完璧です。でも、聞いている社員の目が死んでいました。なので書き直したのは1か所だけです。

 冒頭に「昨年の4月、新入社員の○○さんが緊張で声を震わせながら自己紹介していたのを覚えていますか」と入れただけ。会場の空気が変わったそうです。全員が「あのときの映像」を再生したからです。

 具体の階段を降りるとは、情報を増やすことではなく、映像を1つ置くことです。データは3階の住人。映像は1階の住人です。

 自分の言葉が何階にいるか確認する方法を1つご紹介します。書いた文章に対して、こう問いかけてください。「この言葉を聞いた相手は、頭の中に絵を描けるか?」描けるなら1階。

 ただし「降りすぎ問題」もあります。地下に潜って「昨日の14時23分に、会議室Bで......」と延々描写する。理想は3階と1階を自在に行き来できることです。つまり、相手の理解度に応じて切り替えられる状態です。

 私は、「言葉に階数がある」と書きました。でも本当は、階数があるのは言葉じゃなくて、あなたの想像力です。相手がどこまで見えているか。上から叫ぶのではなく、相手のいるフロアまで降りていく。隣に立って、同じ景色を見せる。それが「具体の階段を降りる」という技術の本質です。

 

いまを生きているという満足感があります。

 今日は朝から、ずっと雨。隣の畑はすでに冠水しています。大難が小難、小難が無難となりますように・・・。(祈)

官軍20万に対して梁山泊軍は4万。どうする(笑)

 ところで、年齢を重ねると、晴れても雨でも「生きていることが楽しい」と思えるようになってきました。「老いてきた」と感じているからでしょうか。(笑)

 石川洋さんがその著書『叶力(かのうりょく)』(サンマーク出版)の中で、「いま現在、生きていることがありがたいといえる人には、あの世もこの世もない、いまを生きているという満足感があります。その安心感は、見えないものをどこかで信じている、おかげがわかるということから生まれてくるのではないでしょうか。その安心感こそが人生を幸せに導いていくのだと、私は思っております。」と説いています。同感です。抜粋して引用します。

・・今年の春のことでした。早朝、友人の禅寺を訪ねようと外へ出ると、疎水公園で散った桜の花びらを懸命に掃いている年配のご婦人が目にとまりましたので、私は「ありがとうございます」と合掌し、声をかけました。
「おばあちゃん、湿った桜を掃くのは大変でございましょう。お疲れになりませんか」
「いやあ、おかげさまで、ありがたいことだと思ってますよ」
一瞬、意味を解しかねて、私は尋ねました。
「桜の花を掃くのが、なんでおかげさまで、ありがたいんですか」
「あんたのような若いお年ではわからないと思うけどな…」
ご婦人は、ほほ笑みながらいいました。もういいかげん年だと思っている私も、このおばあさんからみればまだ若いのでしょう。
「私らはな、年だから、来年になったらこの桜はもう見られないかもしれない。でもな、今年は元気でこの疎水の桜を見せていただいて、そして掃かせていただいている。おかげさまでな、ありがたいことだよ」
 私は、このご婦人のことばに打たれました。桜の命に自分の命を重ねて見ながら、命の尊さ、おかげのありがたさをいっている深いことばだと感じ入ったのです。
 その日、私が訪ねた先の禅寺でも、境内の参道が立派な桜の並木道になっていて、その美しさは実に見事なものです。たまたまそこでも一人の年配のご婦人が散った桜の花びらを掃いていましたので、私はそのご婦人に声をかけ、桜の美しさをほめました。
「おばあちゃん、ここの桜もきれいですね」
するとご婦人は、花びらを掃きながら、木も見上げず、うつむいたままでいいました。
「はあ、きれいかね」
「おばあちゃん、きれいじゃないですか。今年の桜はちょっと早いけど、きれいですよ」
「うん、きれいかもしれないけど、掃くのは私だからね」
 ご婦人は、無表情に、ポツンといいました。掃くのは大変だという思いがあるからでしょう。このご婦人は、散った桜の花びらしか見ていなのです。桜の命のはなかなさも、それゆえの美しさも目に入っておりません。
 あるとき、知り合いの医者と話をしていて、わたしがちらっとそのことにふれると、その先生はポンと手を叩き、「そのおばあさんのことばはすばらしいですよ。いただけますね」といい、続けてこうおっしゃいました。
「人間の成長というのはね、見えないものがだんだん見えてくることなんです」
 人間生活のなかで、いろいろなものを観察し、記憶し、信頼し、それらを積み重ねていくことによって、見えないものが見えるようになってきます。人間のこころの落ち着き、安定は、そのときにこそ生まれてくるのです。
 いま現在、生きていることがありがたいといえる人には、あの世もこの世もない、いまを生きているという満足感があります。その安心感は、見えないものをどこかで信じている、おかげがわかるということから生まれてくるのではないでしょうか。その安心感こそが人生を幸せに導いていくのだと、私は思っております。

AIが賢くなるほど、人間は不完全でいいんですよ。

 ついに、今日から「梅雨入り」です。明日予定していた「ジャガイモ掘り&終わったら昼飲みイベント」は、雨天順延となりました。残念。しかしながら、しばらく雨の日が続くということで、なんとか少しは掘っておこうということで、「収穫適期」となった「男爵」を一人で掘り始めました。が、午後からは雨となり、途中で断念。「梅雨の途中の晴れ間」が出ることを切に祈ります。(笑)

今年は「男爵」も豊作です。

 ところで、人間は中途半端で、失敗が当たり前です。もし、完璧さを求めたとしても、必ずAIに負けてしまいます。マーケティングコンサルタントの藤村正宏さんがそのブログの中で、「AIが賢くなるほど、人間は不完全でいいんですよ。正解の呪いから降りて、もっと自分の感覚を信じ、面白くてワクワクする方を選んでいきましょう。」と説いています。賛成です。(笑)抜粋して引用します。

・・なぜ僕たちは「正解」を求めてしまうのか? そもそも正解って何だろう。それは「誰かが用意した答え」。

 人間は、答えがあると安心する。失敗したくないから、数字や効率、成功事例といった合理的なノウハウにすがる。書店に行けば、「〇〇の成功法則」や「〇〇力」みたいな本がずらりと並んでいて、つい欲しくなる。

 実はこれ、脳の仕組みから見ると仕方ないこと。脳は「正解・安全・前例」が大好物。なぜかというと、正解はエネルギーを使わなくて済むからです 。これは単なるサボりではなく、狩猟採集時代から何万年も続く立派な生存戦略。昔は、危険を避けてみんなと同じ行動をすることが、命を落とさないために「優秀」だと言われてきました。その名残が僕たちの脳にはガッツリ残っているわけです。

 だから、ある会社の「新規事業本部」の人が、ものすごく面白い新規事業を本部長にプレゼンした時、「これは前例があるのか?」と却下されてしまうような笑い話が、現実に起きてしまう(実話)。新規事業なのに一番にブルーオーシャンに入ろうとしない・・・、やれやれ。

 

 1+1=2 は「テストの世界」だけのルール。正解の最たる例が、学校のテスト。テストは「良い点数を取る」というゴールが決まっていて、全員が同じ条件で挑む。算数や数学のルールでは「1+1=2」になる。

 でも、自然界や皆さんの身の回りを見てください。1+1が2にならないことなんて、たくさんあります。例えば、粘土を2つ持ってくっつけたら「1+1=1個」になるし、うちの娘が小学校1年生の時にハムスターを2匹飼い始めたら、赤ちゃんが生まれて増えた。これも「1+1が2じゃない」わけです。

 「1+1=2」だと決めつけてそこで終わってしまうと、それが3になったり0になったりする可能性を考えられなくなる。社会もビジネスも、条件は毎日変わるし、ルールも人によって違う。だからこそ、「こうであるべき」という正解に囚われると、クリエイティビティも面白さも全部なくなってしまう。

 

 正しくやろうとした瞬間、面白さは逃げていく。人間は真面目な人が多いから、「ちゃんとしなきゃ」と思いがちです。ちゃんと時間を守ろうとか、ちゃんと親の役をやろうとか。でも、「ちゃんとする」は時に呪いになる。正しくやろうとした瞬間、面白さは逃げていく。だから僕は、「ちゃんとやらない勇気」を持ってほしいと伝えています。僕は基本的にちゃんとしていない性格なので、勇気はいらないんだけどね(笑)。

 自分が今「正解で動こうとしているな」「損得勘定で動こうとしているな」と気づくことが大事。無理に直さなくていい。直そうと思った瞬間に、また新しい正解を作ってしまうから。ただ「あ、今正解を探してるな」と気づく癖をつけるだけで、自然ととらわれなくなっていくんです 。

 正解はAIに。人間は「不完全さ」を価値にする。これからの時代、正しさの予測や効率、めんどくさい仕事は、AIがものすごい精度でやってくれる。

 じゃあ人間に残されるのは何か? それは「不完全さ」。完璧な人間なんていませんし、完璧を装っている人を誰も好きにはなれない。人間臭くて、欠点があって、不完全だからこそ愛嬌があり、そこに共感が生まれる。

 AIが賢くなるほど、人間は不完全でいいんですよ。正解の呪いから降りて、もっと自分の感覚を信じ、面白くてワクワクする方を選んでいきましょう。