元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

AIに頼らず、自らの意志で生きよ。

 昨日の午後、知人が救急車で大崎市民病院に搬送されたという連絡が入り、すっ飛んでいきましたが、大事には至らず一安心です。近頃、訃報や病気、入院といったような情報が多く、困惑しています。大難が小難、小難が無難となりますように・・と祈るしかありません。

 と、いうことで今日は、残っていたもう1種類の「玉ねぎ」を定植したり、「菜花」と「キャベツ」の播種を行いました。予定通りの進捗です。(笑)

キャベツ1個400円だそうです。高けぇ~

 ところで、一昨日のブログで、「脳をクラウドに直結して機械と合体した新人類にはなりたくない」と掲載しましたが、精神分析家の大澤秀行さんもそのブログの中で、「AIに頼らず、自らの意志で生きよ」と説いています。抜粋して引用します。

・・私のスマホに、いつの間にかChatGPTなるもののアプリが頼みもしないのに入っていた。巷間でもてはやされ、まるで市民権を得た新人類の様にふるまっているChatGPTであることは知っていたが、私がそれに語りかけることも、問いかけることもしない。
 いつしか人は、人間でないものと会話しているかのような錯覚の幻想世界を生きるようになってしまった。それはカーナビから始まり、VRに至り、人は確実に現実界から逃避してしまった。人が人でなくなったとは、生身の人間と共に生き、話をすることが、生命を持った人間の原初である。
 文明の科学の進歩は、人間から生命の源である人間の心を抜き取ってしまった。いや、魂を抜き取られたと言った方がいいかもしれない。
 魂無き人間は、唯の生命体である。ホモサピエンスという哺乳類の一種にしかすぎない。人間であるなら、語り相手に、相談相手にAIを選ばない。生きた人間と話す。感情を共有し、共感できる、温度感と血の通った情熱をほとばしらせる、生きた人間と話す。
 子孫をのこすのに、人工授精はない。凍結保存した精子と卵子を体外受精させる技術は、個人が個人としての尊厳はそこに無い。唯の精子と卵子の細胞だけである。どれとどれをかけ合わせても、受精卵は出来るので、個の心も感情も必要ない。自由に提供者を無視して、子供をつくれてしまう。
 そこに至ると、恋愛小説も恋物語も悲恋も況や家族という概念すらなくなる。最早、人間社会は医療、工業、産業、経済、福祉、政治、他あらゆる分野において、AIが支配してしまうだろう。
 その時人類は生命体としてはそこに存在するけど、実在はしていない空虚な物体の集合体になっている。AIに頼らず、自らの意志で生きよ。

 

「ここに来ると、自分のままでいられる」そんな場所。

 昨日の「恵みの雨」の後は、秋晴れ。野菜がすくすく成長しています。ありがたや、ありがたや・・。(笑)

大自然の恵み。

 ところで、イーロン・マスクさんが「全人類80億人の知能を足し合わせても、AI全体の1%にも満たない残りカスになる。人間がAIに淘汰されない唯一の脱出ルートは、脳をクラウドに直結して機械と合体し、新人類になること。」と言ったとか言わないとか・・・。私は新人類にはなりたくありません。(笑)

 マーケティングコンサルタントの藤村正宏さんが、そのブログの中で、『AIやテクノロジーは、これからも進化していきます。けれど、人が人に差し出せる価値には、表情や声の調子、ちょっとした気づかいから伝わる安心感があります。「ここに来ると、自分のままでいられる」そんな場所や人を、商いの中につくっていく。共感の先に安心感を届けることが、これからの時代に選ばれる理由になっていくのだと思うんだよね。』と説いています。元気村がそんな場所になればいいなと思っています。抜粋して引用します。

・・情報があふれていて、何が正しいのか分かりにくい時代です。SNSを開けば、強い言葉や刺激的な情報が次々に目に入ってくる。将来への不安をあおるような話も、毎日のように流れてきます。そんな毎日に、心が疲れている人も多いんじゃないかな。

 人が本当に求めているものは、いつも派手な刺激や大きな盛り上がりとは限りません。むしろ、「ここにいると、ほっとするな」「この人と話していると、肩の力が抜けるな」と感じられる時間に、深い価値があると思う。

 SNSで強い言葉を使って注目を集めたり、不安を大きくして商品を買ってもらったりする。短い時間なら、うまくいくこともあるかもしれない。でも、そういう発信に触れ続けると、人の心は少しずつ疲れていきます。

 共感してもらうことは大切です。「わかるよ」と言ってもらえると、人はうれしい。自分の気持ちを受け止めてもらえたと感じるからです。でも、共感の先には、もうひとつ大切なものがあります。それが、安心感です。

 この人なら、無理に自分をよく見せなくていい。ここなら、分からないことを分からないと言える。失敗した話をしても、笑われたり責められたりしない。そう思える場所や人が、今は必要とされているんじゃないかな。

 商いでも、お客様を数字や顧客データとして見るだけでは、見えてこないことがあります。目の前にいるひとりの人として迎える。機嫌よく話を聞く。相手が緊張していたら、少しでもほっとできるようにする。その人の気持ちに、あたたかな眼差しを向けること。

 AIやテクノロジーは、これからも進化していきます。けれど、人が人に差し出せる価値には、表情や声の調子、ちょっとした気づかいから伝わる安心感があります。「ここに来ると、自分のままでいられる」そんな場所や人を、商いの中につくっていく。共感の先に安心感を届けることが、これからの時代に選ばれる理由になっていくのだと思うんだよね。

しゃべればしゃべったってしゃべられるし・・

 今日は「親子村民」が来村し、草取りや種蒔き作業を手伝っていきました。当然、「働かざる者喰うべからず」(笑)で、しっかり働いたので新鮮野菜をゲットしました。(笑)みなさまどうぞ元気村の草取りにご参加ください。(笑)

親子村民来村

 ところで、「伊奈かっぺい」さんや「吉幾三」さんがよく話している津軽弁で、「しゃべればしゃべったってしゃべられるし しゃべねばしゃべねってしゃべられるし どうせしゃべられるんだば しゃべねでしゃべったってしゃべられるよりしゃべってしゃべったってしゃべられだほうがいいって しゃべってたってしゃべってけ」という言葉があります。翻訳すると「自分が発言しようがしまいが他人から反論されてしまうので、どうせなら進んで発言した方がよかろう」という意味になりますが、実はお釈迦様も同じことを言っていました。

 実験寺院寳幢寺僧院長の松波龍源さんがその著書『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)の中で、「釈迦牟尼だって文句を言われていた」と説いています。抜粋して引用します。

・・原始経典に記された釈迦牟尼の言葉があります。『何をしても、何かをしたといってある人は非難する。何もしなくても、何もしなかっ たといってある人が非難する。何かをしてもしなくても、非難する人は非難する。だから他者の声なんて気にせずに、自分の心と向き合いなさい。』 

 同じような言葉を、みなさんも聞いたことがあるでしょう。私がこれに救われたのは、言葉の内容そのものよりも、これを言った人が釈迦牟尼であるという事実です。

 あのお釈迦様でさえ、何かといっては文句を言われケチをつけられていたんだ。称賛しかされなかったのであれば、こんな言葉は出てきませんから。そう思えば、自分が文句を言われるのなんて当たり前のことだ、と思ったのです。

 結局、釈迦牟尼の出した答えは「気にするな」でした。他者からの意見や批判は真摯に受け止めるべきですが、あなたの価値を決めるのはあなた自身なので、強く生きなさいということです。何かをしても、しなくても、一定の確率で誰かから文句を言われるんだ、くらいに思っていればいいのです。

 ただし、そのためには賢くなくてはいけません。だから仏教哲学を学ぶのですね。「俺イケてるし」と無知蒙昧(もうまい)な状態でいることとは違います。言ってみれば、称賛も非難の裏返しです。称賛されたときは素直に喜べばいいでしょう。けれどその喜びのあまり、自己認識の軸足を自分から他者に移し替えてしまうと、自分という存在が足場から崩れ落ちてしまいかねません。褒められたりけなされたりするのは、そのときどきの状況でしかないのですから。バズの病に取りつかれそうな人は、これを意識してみてください。

「自分で決めた」感覚が幸福度を上げる。

 今日は明日出荷予定の野菜を収穫した後は、「スナップエンドウ」を定植するための畝にマルチを張る作業を延々と続けました。筋肉がつきました。(笑)

♬鍬を持つ手が震えてる~

 ところで、農作業は重労働ですが、なぜか飽きずに続けられています。会社員時代は、たっぷり出ていたお腹も、今はもうスッキリです。(笑)

 堀田秀吾さんがその著書『心理学×脳科学×行動経済学で科学的に証明された 悩まない人の習慣』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の中で、『「自分で決めた」感覚が幸福度を上げる』と説いています。抜粋して引用します。

・・ロチェスター大学のデシとライアンは、人が長く健やかに生きるには、自律性、有能感、関係性という3つの心理的な栄養が欠かせないと述べています。なかでも自律性とは、自分の行動を自分で選んでいるという感覚のことです。

 彼らの理論では、たどりつく先が同じでも、自分で決めたと感じられた行動のほうが満足度も持続力も大きく上がるとされています。この考え方に沿えば、運動のように続けにくい習慣であっても、ほかの人から指示されるより、自分で選んだと感じられる形で支えられたほうが長持ちするということになります。

 ミシガン大学のイングルハートらは、50カ国以上、30万人を超える国際調査をもとに、長期的な幸福度の変化を追いました。経済の発展、民主化、社会の寛容さといった条件が並ぶなかで、幸福度の伸びとはっきり結びついていたのは、人々が「自分の人生を自分で選べている」と感じている度合いの上昇でした。この感覚だけで、幸福度の変化のおよそ30%が説明できたといいます。この結果は、経済的な豊かさよりも、自分で選んでいるという実感のほうが幸福感にとって強い影響力を持つことを示しています。

 朝の小さな選択でかまいません。着る服を選ぶ、休憩のタイミングを選ぶ、メールの文面を考える。そのひとつひとつに「これは私が決めた」と心の中で決裁印を押してみてください。この習慣は、家事や育児のように一見選ぶ余地がなさそうな場面でも応用できます。決められた作業の中にも、順番や進め方など自分で選べる部分は必ず残っています。

【今日すぐできること】

・小さな選択にも「これは自分で決めた」と考えてみる

・選択の理由に「私がそうしたかったから」を付け加えてみる

 

上司の役割は、部下を自分と同じ人間に育てることではない。

 昨日は10人乗りのタウンエースで、自宅を午前3時に出発し、埼玉県北本市に着いたのが午前9時、13時30分には帰路につき、20時頃やっと自宅に帰ってきました。渋滞もあり、ハードでした。(笑)

 ということで、今日は疲れた体を引きずって、「玉ねぎ」の定植作業を行いましたが、午前中であえなくダウン。人生あきらめが肝心です。(笑)

玉ねぎを定植。

出荷分のサツマイモ(紅あずま)を収穫

 ところで、「老成した」と思われる(笑)人が、「自分と同じ人間に育てること」に拘り過ぎて、相手の欠点ばかりをあげつらっています。挙句の果てには「なぜ俺を立てないのか」、「なぜ無視するのか」等々説教をし始め、結果として「晩節を穢す」ことになっています。(笑)

(株)本物研究所代表取締役会長 佐野浩一さんがそのブログの中で、『上司の役割は、部下を自分と同じ人間に育てることではありません。その人だけが持っている「花」を見つけ、それが咲くように手助けすることです。』と説いています。抜粋して引用します。

・・「初心忘るべからず」。 誰もが一度は耳にしたことのある言葉でしょう。新入社員に向けて、あるいは新しい仕事に取り組む人に向けて、「最初のころの純粋な気持ちを忘れないように」といった意味で使われることが多い言葉です。

 ところが、この言葉を残した室町時代の能楽師・世阿弥が伝えたかったことは、実はもう少し奥深いものだったようです。世阿弥は、父である観阿弥とともに、今日まで続く能楽の基礎を築いた人物です。今からおよそ600年前のことです。思うところあって、世阿弥の『風姿花伝』や『花鏡』に触れながら、あらためて驚かされることがありました。

 そこに書かれているのは、単なる芸能の指南ではなく、もっと広義な人づくりの指南のあり方でした。「人を」どう育てるのか」「どうすれば人は成長し続けられるのか」そして、「どうすればお客様の心をつかみ、長く支持される存在になれるのか」……、現代の経営学やマーケティングにも通じる考え方が、実に見事に説かれているのです。

 そして、その根底にある思想は、舩井幸雄が生涯を通して伝え続けた「舩井流」とも、不思議なほど重なっているように思います。舩井幸雄がよく口にしていた言葉に、「変化こそ不変の原理」というものがあります。世の中で変わらないものがあるとすれば、それはすべてが変化し続けているという事実である。だからこそ、変化を恐れず、時流を読み、自らも変わり続けることが大切なのだと教えていました。

 これは、世阿弥が説いた「花」の思想にも通じます。世阿弥は『風姿花伝』において、役者の成長を年齢ごとの段階に分け、それぞれの時期にふさわしい修業のあり方を説いています。幼いころには幼いころの花があり、若いころには若さゆえの花がある。しかし、それらは永遠に続くものではありません。若さや美しさによって一時的に人を魅了する花を、世阿弥は「時分の花」と呼びました。一方、年齢や環境の変化を超え、長年の修業によって身につけた芸の魅力を「まことの花」として重視しました。

 ここが実におもしろいところです。若いころの成功体験にしがみついていては、いつか花は散ってしまう……。しかし、変化を受け入れ、その時々の自分にふさわしい花を咲かせる努力を続ければ、人は生涯にわたって成長できる。これは、企業経営にもそのまま当てはまります。かつて大成功した商品も、時代が変われば売れなくなる。優秀だった営業マンも、過去のやり方に固執すれば、やがて通用しなくなる……。大切なのは、過去の成功を守ることではなく、変化の中で新しい価値を生み出し続けることなのです。まさに「変化こそ不変の原理」ではないでしょうか。

 さて、冒頭の「初心忘るべからず」に戻りましょう。この言葉は『花鏡』に登場します。世阿弥は、初心について三つの段階を示しています。

「是非の初心」

「時々の初心」

「老後の初心」

 最初の「是非の初心」は、未熟だったころの自分を忘れないこと。次の「時々の初心」は、人生のそれぞれの段階で新たに直面する課題や未熟さを忘れないこと。そして「老後の初心」は、年齢を重ねてもなお、新たに学ぶべきことがあると心得ることです。

 つまり、世阿弥のいう初心とは、単に若いころの志を忘れないことではありません。人は何歳になっても初心者になれる。そして、初心者であり続けることが、成長し続ける条件なのだ……。私はそう受け止めています。

 舩井幸雄もまた、「勉強好き」「すなお」「プラス発想」を成功者の共通条件として挙げていました。なかでも「すなお」であることを、とても大切にしていました。自分の考えに固執せず、知らないことを認め、人の意見に耳を傾ける……。新しい情報や価値観に出会ったとき、まずは受け入れて考えてみる……。それができる人ほど成長するというのです。

 世阿弥の「初心」と、舩井幸雄の「すなお」。時代は違っても、人が成長するための本質は変わらないのだと思います。

 もう一つ、私が世阿弥の思想に強く共感するのは、人の個性や成長段階を大切にしている点です。『風姿花伝』では、幼少期から老年期に至るまで、それぞれの年代に応じた稽古のあり方が示されています。若い人には若い人の魅力がある。年齢を重ねた人には、その人にしか表現できない深みがある……。全員を同じ型にはめるのではなく、それぞれの持ち味を生かすことが大切なのです。

 これは、舩井幸雄の「長所伸展法」に通じます。舩井は、人の短所を直すことよりも、長所を伸ばすことを重視しました。短所を指摘され続けると、人は自信を失い、萎縮してしまいます。しかし、長所を認められ、それを伸ばす機会を与えられると、人は驚くほど成長するものです。

 私は、人財育成の本質とは、まさにここにあると思います。企業において、上司の役割は、部下を自分と同じ人間に育てることではありません。その人だけが持っている「花」を見つけ、それが咲くように手助けすることです。しかも、花が咲く時期は人によって違います。早く咲く花もあれば、時間をかけて咲く花もある……。若いころに目立たなかった人が、経験を積むことで大きな力を発揮することもあります。人を育てる側には、目先の結果だけで判断しない姿勢が求められるのです。

 

 

そもそも、なぜ、ここにいるのか?

 明日は埼玉県へ午前3時出発の日帰りドライブなので、水かけ等軽めの作業で済ませて、あとは「楊令伝」を読んで休憩していました。(笑)

サニーレタスもやっと成長し始めました。

 ところで、組織の会議の中で、なかなか出口が見えない時がありますが、そんな時に「そもそもこの施策の目的はなんなの?」と問い直すことにしています。

 河田真誠さんがその著書『質問の魔力「よい質問」がすべてを解決する』(アスコム)の中で、『「そもそも」を考えると、視点を変えるのはもちろん俯瞰した視点から全体の構造や仕組み、意味を知ることができます。』と説いています。抜粋して引用します。

・・僕がコンサルをしていたスーパーマーケットでこんなことがありました。ある社員からこんなことを言われたのです。

「自分は頭が悪いから、会議で話していることがよくわからない」

 彼女は会議で発言をすることなく、周りからも会議では空気のような存在と思われていました。そこで、彼女にあるお願いをしました。それは、会議のときに自分がわからないことがあったら、「それってどういうことですか?」と何でも素直に聞いてほしいというお願いでした。

 彼女はそれを聞いてくれて、わからないときは素直に質問をしてくれました。これに対し、当初は周りの人は「こんなこともわからないのか」という反応でした。でも、僕は会議の参加メンバーには「彼女の質問に対して、聞かれた側はちゃんと説明してあげてください」とお願いをしました。

 すると、あることがわかりました。それは、聞かれたほうが意外にもちゃんと説明できないことが多かったのです。この質問のおかげで、「わかっているようだけど、わかっていなかったこと」がわかりました。

 さらに、会議の中でも彼女が「それってどういうこと?」と聞くので、そのたびに、ここまでの話し合いの流れや論点を、都度確認しながらみんなが話すという習慣ができました。その結果、驚くような変化が起きたのです!

 それは、会議がわかりやすく楽しいものになっていったのです。なぜその仕事をするのか、意味や価値を参加メンバー全員で考えるようになり、仕事へのやりがいも高まっていきました。その結果、生産性のとても高い会議を実施することができるようになりました。女の質問こそ、まさに「視点を高める質問」です。あたりまえだと思っていたことに対して、素朴な疑問で、そもそもを問い直すのです。

 そもそもどういう構造でそれができているか、どういう意味なのかを考える質問を「そもそも質問」と僕は呼んでいます(質問の技術です)。「そもそも」を考えると、視点を変えるのはもちろん俯瞰した視点から全体の構造や仕組み、意味を知ることができます。

例えば―

●「そもそも、仕事とは?」

●「そもそも、よい仕事とは?」

●「そもそも、お金とは?」

●「そもそも、幸せとは?」

 「そもそも〜とは?」を立てることで、考えの土台が整います。何かをスタートするとき、最初にこの「そもそも〜とは?」を考えることから始めます。

 例えばコンサルの仕事であれば、経営陣と一緒に「そもそも会社とは?」「そもそも社員とは?」「そもそも給料とは?」「そもそも仕事とは?」「そもそも経営とは?」などを考えます。これで「定義」ができます。

 次に「そもそもよい会社とは?」「そもそもよい社員とは?」「そもそもよい給料とは?」などのように「そもそもよい◯◯とは?」も考えます。これは評価の基準にもなります。

 社内やチーム内での価値観がバラバラだったり、チームがうまく前に進めないのは、ここが曖昧なままだからです。定義をハッキリさせることで、目指す方向や評価の基準も明確になります。そこから仕事はスタートします。

 また、この「とは?」をしっかりと深めていくと、それが個性にもなっていきます。「軸がある」「世界観がある」「自分をもっている」という会社(や人)は、この「とは?」がはっきりしていて、その会社(人)なりの答えをもっています。

 さらに「とは?」と合わせて「なぜ?」も考えるとより質問の「質」が上がっていきます。「そもそも、なぜ、この仕事なのか?」「そもそも、なぜ、ここにいるのか?」など。これは初心や目的を思い出すことにもつながります。

 

キレて暴力沙汰を起こしてしまう中高年男性。

 今日も秋晴れ。「こかぶ」もやっと光合成が出来て、大きくなり始めました。収穫までの期間が長すぎて「味」が心配ですが、ひとまずやれやれ・・です。(笑)

太陽がいっぱい。

秋晴れの下の畝たて作業。

 ところで、昨日のブログでは「フキハラ」について掲載しましたが、齋藤孝さんがその著書『リア王症候群にならない 脱!不機嫌オヤジ』(徳間書店)の中で、特に「キレて暴力沙汰を起こしてしまう中高年男性」について注意を促しています。イタタタ・・・。抜粋して引用します。

・・現在、日本は未曾有の超高齢化社会に突入しています。人口のかなりの部分を高齢者が占める時代になっています。 

 少し昔であれば、定年を過ぎて60代になると高齢者と呼ばれることに抵抗はありませんでした。ところがいまは、60代ではまだまだ現役、若いという意識が当人にも周囲にもあるのではないでしょうか。個人差はありますが、昔に比べると見た目には40代くらいにしか見えない人も多くなっています。高齢者といっても、そのあとに70代、80代、さらに90代でもお元気な方々がいらっしゃいます。

 ただ、そのなかで、加齢に伴ういろいろな問題が見えてきているのも事実です。それは、最近のニュースなどでも話題になっていますが、しばしば電車や駅のホームでキレて暴力沙汰を起こしてしまう中高年男性の事件が報じられることがあります。つまりキレやすい中高年、高齢者という問題です。 

 かつて若い人のマナーが悪いと言われていたのは、もうずっと以前の話で、現在の若い人は平均的に見ていると、以前の若者に比べてマナーや言葉遣いも良くなってきています。

 その一方で、かつてマナーが悪いと言われた若者だった中高年や高齢者のキレる姿が問題になっているのです。これからの日本でいちばん心配なのは、中高年、とりわけ男性の「不機嫌」という問題です。中高年の「不機嫌」が日本にとっての障害になっていくということです。

 人間関係は高速道路みたいなものと考えると、不機嫌な人が一人いると大渋滞になります。一人の中高年が「不機嫌ブレーキ」を踏むことで、スムーズに流れていた人や情報の行き来が止まってしまうのです。 

 若い人の不機嫌はたいして周りも気になりません。若いからこその爽やかさがあるのです。でも35歳くらいから中年に向かって、45歳あたりから、避けようもなく、爽やかさの欠如は明らかになってきます。そうなると、普通にしているのに周囲からは「不機嫌」に見えてしまうのです。本人はごく普通にしているのに、周囲からは不機嫌に見えてしまい、怒っているようにすら見えてしまうことが、中高年にありがちなのです。

 これは周囲もそうですが、中高年男性にとっての“悲劇”です。しかも不機嫌に見えるだけでなくて、本格的に不機嫌になりやすい年齢でもあるということです。青年もキレるのですが、青年のキレ方とは違う、年下の若い人へのねたみとかひがみなど、何か中高年男性の独特の誤解に基づいて、自分のほうが偉いんだという、やや上から目線でキレていく。

 時折レストランなどで見かける、ウェイトレスさんに対して、オレは客なんだというスタンスでキレる姿。ポジション、立場が自分のほうが上だぞ、というスタンスが身についてしまってのキレ方になっているのです。

 これは、私の分析するところでは、生物=男性としての魅力が落ちていくことに、上から目線の不機嫌さが加わったものだと言えます。そうすると、普通にしていても不機嫌に見えて、周囲の人からは煙たがられる、挙句の果てには「おじさん、じゃま!」ということになるのです。そしてまた中高年は、不機嫌に見えてキレやすくなっていることに無意識で無自覚になってしまっていることが多いのです。