元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

人生、終わりよければすべて良し。

 野菜は、きめ細かく生育状況を見ながら管理しても、なかなかうまく育ちません。一方で、雑草は肥料もやっていないのに、勝手に立派に成長します。(笑)

 今日は、野菜なのか雑草なのか、わからなくなってきた「サツマイモ畑」の草刈りを行いました。(笑)

少しは綺麗になりました。(笑)

 ところで、完全退職してから2年目に入りましたが、思いのほかもっと昔から農業をやっていたのではないかと思うぐらい楽しく過ごせています。悲喜こもごものサラリーマン時代が遠い昔の出来事に感じています。人生、終わりよければすべて良し。なのかもしれませんね。(笑)

 齋藤孝さんもその著書『人生後半の幸福論~50のチェックリストで自分を見直す~ (光文社新書)』の中で同じようなことを説いています。抜粋して引用します。

・・「終わりよければすべてよし」という言葉がありますが、人生もそうだと思います。

 途中でうまくいかないこと、苦しいことがあっても、最後の仕上げ段階を納得いくものにできれば、幸福な人生だったと思えるようになるのです。

 いろいろな出来がよくて、人生の第1期、第2期に華やかな栄光のあった人、社会的な立場も高くなり、経済的にも恵まれ、周囲からうらやましがられていたような人でも、第3期を迎えてから自分の居場所を見つけられなかったら、人生に対する肯定感が下がります。 

 「あのころはよかったなあ(今は毎日が退屈だ、つまらない・・・)」 「昔は自分の周りは賑やかだった(なんでこんな寂しくて惨めなことになったんだ・・・)」 

 こんな思いがあると、過去がどんなに素晴らしかったとしても、人生に対する幸福感、満足感は薄くなってしまうのです。 

 逆に、これまで人生がうまくいかないことばかりだった、お金もたくさん稼げなかった、世の中は理不尽だと不満に思って生きてきたという人も、ここで自分がエネルギーを注げるものを見つけられれば、スイッチを切り替えられるのです。 

 これまでのこともすべて意味があったのだと受け入れるためには、今に満足感を持てることが大事です。現在を肯定して過ごせると、これからのことに対する不安も和らぎます。

 だから、第3期を黄金期ゴールデンエイジにできれば、人生はあらかたうまくいったと考えられます。

<参考>

齋藤孝氏の「100年時代の人生を4つに分けて考える」。

●第1期「生まれてから25歳まで」(成育期)☞親や会社から庇護(ひご)を受けて育つ時期です。

●第2期「25歳から50歳まで」(活性期)☞社会を活性化させていく中心。重要な働き手となる時代です。

●第3期「50歳から75歳まで」(円熟期/黄金期)☞人生の折り返し地点を迎え、仕事でも家庭でも人生の節目となる変化があります。組織のリーダーとして活躍していた人も、定年を迎えます。

●第4期「75歳以降」(自由期)☞社会人として果たすべき責任や義務を完遂(かんすい)してきて、この年齢を迎えます。ここからは老後、余生として自由に過ごす時代といえます

誰か他に私を助けてくれる人はいませんか?

 今日は午前中、トイレの水漏れがあり、昵懇の業者の人に見てもらいました。メーカーに電話すると、買い替えを最優先で勧められますが、彼が見てくれたところ、もしかすると、ちょっとした器具の交換だけで済みそうです。

 こうした対応をしてもらえるから「信用」が生まれるのですよね。もし、買い替えになった場合でも、メーカーから直接ではなく、当然、彼から購入すると思います。(笑)

 

その手を放しなさい。

 ところで、ビョルン・ナッティコ・リンデブラッドさんがその著書『私が間違っているかもしれない』(サンマーク出版)の中で、「知識は、知っていることすべてを自慢する。知恵は、知らないことすべてに対して謙虚になる」と説いています。どういうことでしょうか。抜粋して引用します。

・・それは、山に登っている男の話だ。すでに約半分ほど登ってきたが、斜面はとても険しい。道は狭く、雨で滑りやすくなっている。道の真ん中に、ひどく滑りやすい丸石がある。男はそれに気づかずに足を乗せ、足を滑らせて崖下に転落してしまう。

 落下しながら、何かにしがみつこうとして必死に両手をばたつかせていると、奇跡的に崖から水平に生えている小さな木の枝をつかむことに成功した。男はそのまま枝にぶら下がる。

 彼は信心深い人間ではなかったし、神の奇跡のようなものにも興味はなかった。時間が経過するにつれて、ゆっくりと腕から力が失われていった。筋肉が震え始めた。眼下の地面まで、約500メートル。つまりもし手を離せば、500メートル下に落下することになる。

 男はパニックに陥り始めた。あと少ししか持ちこたえられないだろう。たまらず、空に向かって試しにこう尋ねてみた。

「もしもし? 神様? 聞こえますか? 私は本当に助けが必要なのです。もしあなたがそこにいるなら、応えてくれますか?」

しばらくすると、空から深く威厳のある声が聞こえてきた。

「私は神だ。お前を助けることができる。ただし、そのためには私の言うことに従う必要がある」

「どんなことでも言うことを聞きます!」男は叫んだ。

「手を放しなさい」神は言った。

男は数秒間、考えてから言った。

「ええと……誰か他に私を助けてくれる人はいませんか?」

 

 この物語は、私の心に訴えるものがあった。自分が頑固な思い込みにとらわれていると気づくたびに感じるのと同じことが、描かれていたからだ。

 私は男が枝から手を放すのを嫌がったように、自分の考えが正しいと信じて疑わず、それを手放そうとしないことがある。誰もが、このロジックに絡め取られることがある。気分が落ち込んでいるときは、特にそうだ。私たちは、凝り固まった考えにしがみついてしまう。

 頭では、間違った考えがどれほど自分にとって有害なものになりうるか、そうした考えを信じることがどれほど不要な精神的苦痛に結びつくかを理解しているかもしれない。けれども次の瞬間には「でも、この考えは絶対に手放せない。これは間違いなく正しい」と思ってしまうのだ。その瞬間は視野が狭くなっているので、自分の考えに疑う余地はないと思えるかもしれない。しかし、それはあなたにどんな影響を与えるだろうか?

 手放す練習は、私が仏教の修行を通じて学んだことの中でも、特に重要なものだ。この知恵は深い。手放すことが上達すれば、そこから得られる恩恵ははかりしれない。

 私たちを傷つけ、卑小さや無力感、孤独、恐怖、悲しみ、怒りを助長させる思考を取り除く唯一の方法は、それらを手放すことだ。たとえそれらが「正しい」としても、手放すのだ。

 もちろん、それを実践するのは頭で考えるほど簡単ではない。しかし結局のところ、私たちをもっとも苦しめるのは、なかなか手放すことができない考えであることが多いのだ。

 

マナーは守ろう、人には頼ろう。

 台風が「恵みの雨」を残して去っていきました。ありがたや、ありがたや・・・。朝方の涼しいうちに、秋用のキュウリ苗を定植しました。昨年は一気に植え付けしましたが、今年は時期をずらして育てています。失敗は成功の基です。(笑)

キュウリ苗を定植しました。

 ところで、生成AI活用支援のワークワンダースCEOの安達裕哉さんがそのブログの中で、「マナーは守ろう、人には頼ろう」ということを説いています。納得です。「他人から受けた恩は、重荷と思わず、縁ある人に返して行けばいい」のですよね。抜粋して引用します。

・・日本人であれば、人に迷惑をかけてはダメ、と言われ続けて育った人が殆どではないかと思う。だから、隣人をはじめ、公共の場での見知らぬ人々に対して、日本人はとても気を遣う。道端で座り込んではいけないし、駅のホームでは電車を行儀よく整列して待たねばならない。道にごみを捨ててはならないし、エレベーターの中で大声でしゃべってもいけない。

 もちろん恥知らずも少なからずいるが、こうした「暗黙の了解」は、ほとんどの日本人のマインドに深く根付いており、外に出れば、眉を顰められないように、気を遣って過ごさねばならないと考えている人が殆どだろう。

 しかし、上のような「マナー」程度の話であれば問題はないが、それが高じて「決して人に迷惑をかけてはならない」が行き過ぎれば、弊害がある。それは端的に言えば、「お互いが、お互いを頼らなくなる」ということだ。

 人は頼り、頼られてこそ、絆が強くなる。実際には、人には、迷惑をかけたほうがいい時も多いのだ。

 ・・例えば。あなたはベテラン社員で、日々忙しい。そこに、ひとりの新人が「本当に困ってまして……助けてもらえないでしょうか。」と言いに来る。

 めちゃくちゃ忙しいのに……勘弁してくれよ……と思いながらも、「しかたねえな、助けてやるよ」と、手を差し伸べる。自分が苦しくなるのはわかってはいるが、人を捨てておけない性格だからだ。

 結局、散々苦労したが、新人の問題解決には成功した。自分の仕事は残っているが……まあ、何とかなりそうだ。

 あなたは新人に「貸し」をつくった。はずなのだが、その新人が上手くやれているかどうか、その後も気になる。予想通り、いろいろと困っていたので、手を差し伸べることにした。「しょうがねえなあ、面倒見てやるよ」と、彼は言い、新人は「本当にありがとうございました!先輩感謝です!」と言ってくれる。まんざらでもない。むしろ、他の出来の良い新人に比べれば、能力的には今一つなのだが、「頼られる」ことは悪い気持ちはしない。

 そして後日わかったのだが、彼は「新人」たちから、頼りがいのある先輩として、一目置かれていた。「人望」というものは、こういうものなのか。「じゃあ、俺のために死ぬほど働いてもらうからな。」後輩たちはこう言った。「なんでもやりますよ!」

 とはいえ、また彼らのしりぬぐいをやるのは自分だ。でも、成熟した大人の人間とは、そのように「頼られながら」生きていくものなのだ。

 上の話はフィクションではない。というより、どこの組織にも、多かれ少なかれ、このような話は存在している。

 この話の注目すべきポイントは、必ずしも「迷惑をかけること」が悪いことではないという点だ。しかも、「先輩」は、後輩から一方的に迷惑をかけられている。「ギブアンドテイク」ですらない。

 親から受けた恩は、親に返すのではなく、子供に返していく。先輩からおごってもらったときに、先輩に返そうとしたら、「ベテランになった時に、後輩におごってやれよ」と言われる。旅先で見知らぬ人から親切にしてもらったら、自分も見知らぬ人に親切にする。

 こういう「頼り」「頼られ」が世の中全体で回っていくことが、本当の意味で

「迷惑をかけないで過ごしていく」よりも大事なのは、言うまでもない。「人に迷惑をかけてはいけません!」ではなく、「マナーは守ろう、人には頼ろう」でもよいのではないかと思う。

 

 

相手を思うことは、自分を大切にすること。

 今日は台風が通過したのに、風と雨が強く、なんとか午前中作業は出来ましたが、午後からはあきらめて「雨読」にしました。千野隆司さんの書いた「勧善懲悪」の時代小説シリーズ「おれは一万石」33巻目です。必ず最後にはスカッと解決するので、安心して読めます。(笑)

不穏な気配の今朝の空

強風で茄子の枝が折れました(´;ω;`)ウゥゥ

お昼寝の後、面白くて「一気読み」してしまいした。(笑)

 ところで、「自分のことだけでも大変なのに、他人ために与えるなんてできない」と考える人がいます。そのとおりと思いますが、「相手を思うことは、自分を大切にすること」にもつながります。

 ライターの小川晶子さんが『STOIC 人生の教科書ストイシズム』(ブリタニー・ポラット著、花塚恵訳)の発刊に寄せて書いた記事の中に、「他者だけでなく、自分も大切にすること」と説いています。なるほどです。抜粋して引用します。

・・以前、チベット仏教の高名な僧侶にお会いした。見るからに慈愛に満ちているその方が自然に人を助けるので、「人に与え続けると、自分の分が減っていきませんか?」と聞いてみた。

 たとえば、お腹がすいている人にリンゴをあげたら、自分のリンゴはなくなってしまう。困っている人がいたらつねに手を差し伸べるというのは、そうしたいと思いつつなかなかできない。与えれば与えるだけ、自分がすり減るのではないかという恐れがあるからだ。

 その方は、「その気持ちはわかりますよ」と共感を示したうえで、それでも、「不安や恐れが幸せを遠ざけてしまう。慈しみの気持ちは減ることはない。善いと思った行動をするだけだ」といった話をしてくださった。そして、「自分を愛しなさい」とも。

 古代ギリシャで生まれたストイシズムでも、「善の泉は尽きることはない」といった教えが説かれている。

 

内面の泉を掘り続ける自分の内側に目を向けよ。

内側は善の泉であり、あなたがつねに掘るなら、それはつねに湧き出るだろう。

マルクス・アウレリウス『自省録』)

――『STOIC 人生の教科書ストイシズム』より

 

 外を見ると、いろいろ足りないものに目が行く。しかしストイシズムは、人は「内面」という自分の力でコントロールできるものに注力すべきで、外部のコントロールできない事象にやきもきしても意味がないと説く。

 さらに、その内面は「知恵」「正義」「勇気」「節制」という美徳が備わった、無限の「善の泉」だという。

 たとえば毎日イラッとすることを言ってくる相手がいたとして、イラッとするかしないかというのは「コントロール可能」なので、自分で選択できる。

 それだけでなく、すべての人に思いやりを持つべきというのがストイシズムの考え方だ。ただし、その「すべての人」には自分も含まれる。他者に配慮しつつ、他者と同じように自分のことも敬い、尊重するのだ。

 人に重箱の隅を突くようなことを言われたときは、意識して感情を泡だてずに「ありがとうございます」と相手に配慮する。それでいて卑屈にならず、「こういうことも考えられますか」と自分の意見も提示する。

 そうした姿勢は、他者だけでなく、自分も大切にすることにつながる。自分を愛し、自分の中にある美徳を見つめ、善の泉を絶えず掘り続けていきたいと思う。

 

夫婦関係、親子関係が良好であればあるほど、いい仕事をする。

 今日は台風と昨夜22時過ぎまでの会議の後遺症もあり、覚悟を決めて「だらだら」しています。(笑)

 

夜遅くまでの会議が辛くなりました。(笑)

 ところで、会議の中で話題の中心となったのが、「部下の育成」です。どのように部下に接していけばいいのか、ジェネレーションギャップも当然ですが、パワハラやセクハラ等への過剰意識もあり、「妙な遠慮空間」が漂っています。

 そんな中でも、部下から信頼され、尊敬されているリーダーは「家庭を大切にしている」というキーワードが浮かび上がってきました。

 早川勝さんがその著書『覚悟を決めたリーダーに人はついてくる』日経BP)の中で、「仕事脳を活性化させるのは家族愛」と説いています。なるほどです。抜粋して引用します。

・・外資系生保の名古屋支社長として100名以上の精鋭部隊を率いていた頃、チームメンバー全員のご家族(配偶者さま、お子さま、ご両親)宛に、手紙を出したことがある。

 メンバー個々の活躍を報告する手紙だ。内容はメンバーそれぞれの個性や特長を生かした仕事ぶりや、いかに会社に貢献してくれているか、感謝の気持ちを書き連ねた。
 それはもう寝不足続きの大変な作業となったが、まったく苦にはならなかった同時に、何よりも、メンバーとその家族に対して、リーダーである私自身の「責任感」と「覚悟」がより強まる。家族に心配をかけることなく、なんとしても、メンバーを育成したい、昇進する手助けをしたい、成功へと導いてあげたい、という大きなパワーをもらえるのである。

・・すると、多くのご家族から、お礼の返事が届いたのだが、そこにはある傾向があった。成績優秀なメンバーのご家族ほど返信率が高く、手紙の中身が濃かったことだ。

 ご家族からの返信を読むと、チームメンバーがいかに家族を大切にしているか、その日常が読みとれた。やはり、夫婦関係、親子関係が良好であればあるほど、メンバーはいい仕事をするものなのだ。

 誰にとっても、家族とはかけがえのない存在だ。そして、家族はいつも最大の理解者であり、最高の応援団でもある。何のために、誰のために、奮闘努力するのかといえば、「家族のため」であろう。

 エネルギーの源が家族だとするなら、リーダーであるあなたもその家族のことを知る必要があるのではないだろうか。いまや時代の常識とは逆行しているかもしれないが、私は家族参加型のイベントを開催するのが好きだった。表彰式へのご招待はもちろん、食事会、慰安旅行、ディズニーランド、バーベキュー大会に、スポーツ大会など、メンバーの家族と多くの接点をもち、巻き込めば巻き込むほど、メンバーの士気は高まった。

 ときとして、「家庭訪問」まで実施したほどである。「子どもじゃないんだから」という疑問の声が聞こえてきそうだが、家族と会えば"問題の本質"が見えてくる。

 と同時に、何よりも、メンバーとその家族に対して、リーダーである私自身の「責任感」と「覚悟」がより強まる。家族に心配をかけることなく、なんとしても、メンバーを育成したい、昇進する手助けをしたい、成功へと導いてあげたい、という大きなパワーをもらえるのである。 

 一方で、リーダー自身の家族への向き合い方にも注意しておきたい。あまりにも一途にマネジメントへと邁進するあまり家族を顧みず、それが原因で家庭生活が崩壊し、チーム経営にもマイナスの影響を与えるケースがある。

 仕事と家庭の両立というのは、リーダーのみならず、すべてのビジネスパーソンにとって永遠のテーマであると言ってもいいだろう。仕事のために愛する家族が不幸になるのは、本末転倒な話だ。

 家族への愛を行動に移せない人間が、チームメンバーへ人間愛をもって接することなどできるわけがない。仕事を言い訳に家庭を犠牲にするなど、リーダーとしても一人の人間としても、けっして犯してはならない背信行為なのだ。

 真の愛情や深い思いやりは、心の中で思っているだけでは伝わらないもの。メンバーと接しているとき以上の笑顔とマメなサービス精神をもって、家族と超濃密なコミュニケーションをとり、愛を実践していくべきである。

 リーダーとして、職場ではなんとか人格者を装っているのに、家庭に帰ったとたんに身勝手で疲れ切った人間に変貌してしまうのは残念だ。
 家庭内の寛ぎとは、だらしのない人間性を暴露する場ではない。自己中心的な振る舞いやわがまま放題な態度では、家族は誰もついてこないだろう。

 これからは家族の見本となる態度を貫くこと。家庭とはむしろ、「真のリーダー」としての健全な人間性を育てるところなのだから。

 また、逆に家庭をスケープゴートにして、チームマネジメントを蔑ろにするなど論ずるに値しない。たとえば、偽者のマイホームパパ。彼らの化けの皮を剥がせば、怠け者の素顔を拝むことができる。

 家庭犠牲型の仕事人間も失格、家庭逃避型の怠け者もまた、リーダー失格だ。
あなたの覚悟を決めた「高潔な生き方」が、家庭を幸福に導き、チームをも繁栄に導くのである。

 

かわいいと思うだけでは動物は育てられない。

 明日、明後日と台風が来るということで、風で倒れそうな野菜にネットをかける作業を行いました。大難が小難、小難が無難となりますように・・(祈)

暑さが戻る中、台風対策を実施。(;^_^A

訪問ペット火葬で弔いました。

 ところで、我が家の「愛猫」がとうとう旅立ちました。20年の長きに渡り、わたしたち家族と一緒に暮らしました。人間で言えば、「百歳」の天寿を全うしたことになります。最後の最後まで私たち家族を癒してくれました。感謝しかありません。(´;ω;`)ウゥゥ

 2012年当時、小学校6年生だった谷山千華さんが書いた作文が、愛知県豊橋市

「話し方大会」で最優秀作品に選ばれたそうです。ペットを「最後まで責任を持って育てる大切さ」「動物の命の重み」「殺処分の残酷さ」等々小学生が感じた様々な想いが、痛いほど素直に伝わってきます。少し長いですが、引用します。

 近所に捨てネコがいる。そのネコは目がくりっとしていて、しっぽがくるっと曲がっている。かわいい声をあげていつも私についてくる。

 真っ黒なネコだったので、魔女の宅急便から『キキ』と勝手に名付けてかわいがった。人なつっこい性格からいつの間にか近所の人気者になっていった。

 子ネコだったキキも2年たった頃にうれしい出来事があった。赤ちゃんを産んだのだ。でもキキは捨てネコだったので、行き場所のない子ネコたちを近所の鈴木さんが預かってくれた。

 毎日のように子ネコを見に行って、まるで自分の飼いネコのようにかわいがった。ある日、突然子ネコの姿が見えなくなった。そこで鈴木さんに尋ねてみると、「○○センターに連れて行ったよ」と、うつむきながら言った。

 私はうまく聞き取れず、何を言っているか分からなかったが、たぶん新しい飼い主が見つかる所に連れて行って幸せに暮らせるんだなと思った。

 次の日、学校でこのことを友達に話したら「保健所だろ?それ殺されちゃうよ」といった。私はむきになって言い返した。「そんなはずない。絶対幸せになってるよ」。殺されちゃうという言葉がみょうに心にひっかかり、授業中も保健所の事で頭がいっぱいだった。

 走って家に帰ると、急いでパソコンの前に座った。『保健所』で検索するとそこには想像もできない、ざんこくなことがたくさんのっていた。

 飼い主から見捨てられた動物は日付ごとにおりに入れられ、そこで3日の間、飼い主をひたすら待ち続けるのだ。そして飼い主が見つからなかった時には、死が待っている。10匹単位で小さな穴に押し込められ、二酸化炭素が送り込まれる。

 数分もがき、苦しみ、死んだ後はごみのようにすぐに焼かれてしまうのだ。動物の処分1匹につき78円。動物の命の価値がたったの78円でしかないように思えて胸が張りさけそうになった。そして、とても怖くなった。

 残念ながら、友達の話は本当だった。調べなければ良かったと後悔した。現実には年間20万匹以上の動物がこんなにも悲しい運命にある事を知り、さらに大きなショックを受けた。

 動物とはいえ、人間がかけがえのない命を勝手にうばってしまってもいいのだろうか。もちろん人間にも、どうしても動物を育てられない理由があるのは分かっている。一体どうすればいいのか分からなくなった。

 キキがずっと鳴いている。大きな声で鳴いている。いなくなった赤ちゃんを探しているのだろうか。鳴き叫ぶその声を聞くたびに、パソコンで見た映像が頭に浮かび、いてもたってもいられなくなり眠れない夜が続いた。

 キキのかわいい声もいつの間にかガラガラ声に変わり、切なくなった。言葉が分かるなら話をしたい。私はキキをぎゅっと抱きしめた。

 最近キキの姿を見かけなくなった。もしかしてキキも保健所に連れて行かれたのかと一瞬ひやっとした。それから1週間後、おなかに包帯を巻いたキキを見かけた。鈴木さんがこれから赤ちゃんを産めない体に手術をしてくれたのだ。

 私は心から感謝した。この先キキも赤ちゃんも捨てられずにすむという安心した気持ちと、鈴木さん家のネコになってしまったんだというさみしい気持ちとで複雑だった。正直、とてもうらやましかった。

 命を守るのは私が考えるほど簡単なことではない。かわいいと思うだけでは動物は育てられない。生き物を飼うということは1つの命にきちんと責任を持つことだ。おもちゃのように捨ててはいけない。だから、ちゃんと最期まで育ててやれるという自信がなければ飼ってはいけない事を学んだ。

 今も近所には何匹かの捨てネコがいる。私はこのネコたちをかわいがってもいいのかどうか、ずっと悩んでいる。

 

大事なのが「意識的に自分をほめること」。

 近頃、夏バテなのか「右手に力が入らない」「左下半身がつっぱる」という症状がありました。それを家族に伝えたら「すぐ脳波を調べなさい!!」と半ば強制的に、MRI検査を受けさせられました。(笑)

 結果は、「ただの働き過ぎ」でした。(笑) おかげさまで私の脳は、加齢による萎縮もなく、極めて良好なのだそうです。血管も正常で、「問題になるようなところは全くありません」とお墨付きをいただきました。有森裕子さんじゃありませんが、「自分で自分を褒めてあげたい」と思います。パチパチ!!

元気村の「向日葵」が咲き始めました。

隣りの家に迷い込んだ猫。飼い主を探してます。

 ところで、水谷友紀子さんがその著書『「ご機嫌」でいれば、「奇跡」がついてくる! 「引き寄せ」に成功する毎日のヒント/講談社の中で、大事なのが「意識的に自分をほめること」と説いています。抜粋して引用します。

・・以前、ある出版社の編集者から、「あの~、大変失礼な言い方に聞こえるかもしれないんですが、水谷さんてなんでいつもノー天気なんですか?」と質問されたことがあります(笑)。

 また、コーチングのクライアントのみなさんからも「水谷先生って、どうしていつもそんなにご機嫌なのですか?」と言われることも度々あります。

 そんなときの私の答えはいつも同じです。「コーチングの最中とか、もしくは講演やセミナーでみなさんの前で喋っているときとか、つまり誰かとお話ししているときにはそれに集中しているのでやってはいませんが、ひとりでいるときには私は年がら年中自分と喋っていて、自分に『嫌な言葉』をほとんど聞かせないからです」と。

 つまり、私はいつも自分自身に向かって「キャ~ッ!上手、上手~つ!」とか、「私ってすごい、すっご~い!」とか、「私ったらなんて天才なんでしょう!」などなど、一日中喋ったり叫んだりしまくってくるのです。

 挙げ句の果てには年中「パチパチ!パチパチ!」と自分自身に拍手までしている始末なので、きっと同居している母からすれば「また、ひとりでパチパチやってるわ~」と内心呆れ果てていることでしょう。

 我々は普通にしていると、無意識に8割方、ネガティブな言葉や意識を持ってしまうという。だからこそ、大事なのが「意識的に自分をほめること」。