元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

人生が消化試合に入ってしまった?

 仙台も夜中に雷鳴がとどろき、猛烈な雨が降りましたが、秋田・山形のような雨ではありません。秋田・山形では大変な被害が出ているようです。「大難が小難、小難が無難となりますように・・」と祈るしかありません。皆様ご無事でありますように・・。(祈)

一瞬「川?」と見間違う元気村の農道

食べる人を元気にする元気村野菜(笑)

 ところで、今日は元気村野菜の大口のお客様に40セットお買い求めいただきました。種類は11種類(ジャガイモ、玉ねぎ、にんにく、ゴーヤ、ズッキーニ、キュウリ、オクラ、ナス、ネギ、トマト、枝豆)。

 「元気村の野菜は、その名のとおり元気でシャキシャキで、食べると元気をもらえるんですよね。」との有難いお言葉をいただきました。いやはや、農家という仕事は素晴らしいですね。「食べる人を元気にする元気村野菜」。超楽しい~!!(笑)

  と言うことは、私の人生はまだ消化試合には入っていないのだと思います。安達裕哉さんが、「予測可能性の高い人生は不幸でしかない」と語っています。なるほどです。抜粋して引用します。

・・中年の悲哀の本質は何か。

それは、「人生の予測可能性の高さ」です。

つまり、「私の人生はこんなもので、これからも特に大きなイベントは何も起きない」とわかってしまうことに起因するのです。

これは「希望のなさ」というか、人生が消化試合に入ってしまったことを意味します。

先が見えたゲームほどつまらないものはないです。

結末のわかっている推理小説は興ざめです。

ネタバレされた映画の魅力は半減します。

先が読めてしまった人生は、色褪せます。

不安定な人生に比べて、予測可能性の高い人生は、一見すると安定していて良いように感じます。

が、実は「予想外」のない、ルーティンワークをこなすような人生は短く、かつ、つまらない。

逆に言えば、子供の頃は、「知識がない」「経験がない」「予想がつかない」がゆえに、不安と、そして希望と楽しさがある。

人生の予測可能性が低いこと、それが一種の「無知による幸福」をもたらしていたのです。

生き生きとするためには、

「この選択が、人生にどのような結果をもたらすのか?」

が不透明であることが重要です。

恋愛や結婚。

場合によっては就職。

あるいは子をなすことは「予測可能性」を低くします。

そういったイベントは、不安に駆られる一方で、人はそこに希望を感じる。

不安と希望は、トレードオフなのです。

人生の結末の「死」の先がわからないことは重要です。

死がすべてを解決することや、来世への期待が持てますから。

そう考えていくと、「哀しみのない中年」たちのタネが分かってきます。

彼らは、意図的に「人生の予測可能性を低く」保つ努力をしているのです。

やったことのない趣味。

新しい仕事。

これまでとは異なる人間関係。

子供の頃、なんであんなに日常が楽しかったのか。

それは、無知と幸福が密接に絡んでいるからです。

ですから、意図的に予測可能性の高い既定路線から逸脱して、結末の予想できない行為を取り入れるほど、「無知による幸福」を取り戻すことができる。

もちろん、日常から逸脱することで不幸に陥ってしまう可能性もあります。

起業の失敗や、転職による生活満足度のダウン、新しい人間関係のストレスも馬鹿になりません。

過度な予測可能性の欠如は、不幸を招きます。

しかし、そもそも予測可能性の低さを、コントロールすることそのものが、人生の醍醐味なのです。

ゲームはそのあたりが、非常に上手く設計されています。

「何が起きるかわからない」

「それに備えてあれこれ試す」

「クリアできたときの達成感」

人生の縮図が、ゲームにはあります。

ゲームの外でも同じような達成感を得たいなら、子どもの頃のように人生を再び輝かせたいなら、「予測不可能」に飛び込むしかありません。

人生の輝きはそうやって、取り戻すものなのです。

 

自分が楽しんでこそ、人もついてくる

 近頃天気予報が外れます。妻と「降る降る詐欺だよね」と笑っています。なので今日もまた、そんなに降らないだろうと思って作業をしていたら、昼前から突然の大雨に・・。お昼休みをたっぷりとって晴れるのを待ちましたが、2時過ぎにあきらめました。が、この程度なら野菜にとって恵みの雨です。

 一方、秋田・山形は大変な状況のようです。大難が小難、小難が無難となりますように・・(祈)

早朝5時の空。大雨になるとは思えませんでした。

元気村事務所で2時間の長~い昼休み。(笑)

 ところで、個人的なことですが、会議施設や温泉施設等のトイレのスリッパは、なるべく並べることにしています。スリッパが乱雑になっていると「しめしめ、これでまたひとつ徳を積むことが出来るな・・」と、ほくそ笑んでやっています。(笑)

 茗荷村創設者、田村一二(いちじ)さんが、『1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書』(致知出版社)の中で、履物を並べることで人生観を学んだことを言っています。なるほどですね。引用します。

私は六人の息子を持っているわけですが、 彼らがまだ小さいとき、どうしても履物をきちんとそろえられなかった。

叱っても、そのときはそろえるが、すぐに元通りに戻ってし まうのです。

それで、私が尊敬する糸賀一雄先生にお尋ねしました。

「しつけとはどういうことですか」と。

先生は、 「自覚者が、し続けることだ」とおっしゃる。 

「自覚者といいますと?」と聞くと、「それは 君じゃないか。君がやる必要があると認めているんだろう? それなら君がし続けることだ」「息子は?」「放っておけばいい」というようなことで、家内も自覚者の一人に引っ張り込みまして、実行しました。 

実際にやってみて、親が履物をそろえ直しているのを目の前で、息子がバンバン脱ぎ捨てて上がっていくのを見ると、「おのれ!」とも思いました。

しかし、糸賀先生が放っておけとおっしゃったのですから、仕方ありません。

私は叱ることもできず、腹の中で、「くそったれめ!」と思いながらも、自分の産んだ子供であることを忘れて、履物をそろえ続けました。

すると不思議なことに、ひたすらそろえ続けているうちに、だんだん息子のことも意識の中から消えていって、そのうちに履物を並べるのが面白くなってきたのです。

外出から帰ってきても、もう無意識のうちに、「さあ、きれいに並べてやるぞ」と楽しみにしている自分に気がつきました。 

さらに続けていると、そのうちに、そういう心の動きさえも忘れてしまい、ただただ履物を並べるのが趣味というか、楽しみになってしまったのです。

それで、はっと気がつい たら、なんと息子どもがちゃんと履物を並べて脱ぐようになっておりました。 

孔子の言葉に、「これを楽しむ者に如かず」 というのがありますが、私や家内が履物並べ を楽しみ始めたとき、息子はちゃんとついてきたわけです。 

私事で恐縮ですが、ここに教育の大事なポイントの一つがあると思います。

口先だけで人に、「こら、やらんかい」とやいやいいうだけでは、誰もついてきません。

自分が楽しんでこそ、人もついてくるんだという人生観を、私は履物並べから学んだ次第です。

 

 

 

「あり方」「あるべき姿」の祈り

 今日も朝からムシムシ。朝仕事で1回着替えをしました。金曜日に大口の注文が入り、その準備に大童(おおわらわ)でした。(笑)

今日も暑いぞ!! の朝の空

暑いと食べたくなる「井戸浜や」の冷やし中華。まいう~

 ところで、先月「今泉リサイクルプラザ」に行ったら、アウトドア用の二人掛け椅子が展示されていて、抽選で「無料贈呈」という案内があり、応募してきました。

 そして今日、使わなくなったサラリーマン時代のスーツやワイシャツをクリーニングして、寄付しに行ったら、見事「当選でーす!!」というではありませんか。(笑)

 松下幸之助さんが採用面接の最後に「君は運が強いですか?」という質問をしたそうです。そして「運が悪いです」と答えた人はどんなに学歴や試験結果がよくても不採用にしたと伝わっています。

 なので、私は採用されると思います。(笑)

大当たり!! 倍率41倍だったそうです。

 八木龍平さんがその著書『成功するビジネスパーソンは、なぜ忙しくても神社に行くのか?』(PHP研究所)の中で、松下幸之助さんと稲盛和夫さんが「なぜ、松下幸之助稲盛和夫は熱心に神社に通ったのか」を解説しています。なるほどです。抜粋して引用します。

神仏参拝でおそらく一定の人が「引っかかる」「疑問に思う」のは、次の点ではないでしょうか。

・祈ったら得するのか?
・祈らなかったら損するのか?

この点について、松下幸之助氏の著書『PHPのことば』(PHP研究所)には、「特別にお祈りをしたからといって、とくにその人だけに恵みが多く与えられるわけでもなく、またお祈りをしないからといって、恵みが与えられないというわけではないのであります。このように考えるのは、人間の得手勝手な独断で、天地の恵みは、小さな人間の知恵を超えて、すべての人に平等に、さんさんとして降りそそいでいるのであります」と記されています。

 

では、いったい何のために祈るのか?

松下氏が別邸の真々庵を訪れた時に必ずしたことは、根源社という社に向かって「今日1日、素直であれますように」とお祈りし、そして「今日1日、素直であったかどうか」を反省することでした。

稲盛和夫氏は「力の限り努力すること」を祈りました。

松下幸之助氏は「素直であること」を祈りました。

自身の「あり方」「あるべき姿」を神様に誓い続けるのが、経営の神様と言われたビジネスパーソンに共通の「祈り」です。

これを読んだあなたは、どうありたいですか?

ご自身のありたい姿を、神仏にお祈りしてみてください。

 

お先にどうぞ

 今日は昨日より1度低いということで、決死の覚悟で(笑)農作業に挑みました。元気村はすぐ隣が海なので、いつも海風が吹きます。普段は風が邪魔になるのですが、今の季節は大歓迎です。勝手ですよね。(笑)

第二次落花生救出作戦終了

サツマイモ遭難中

  ところで、毎日若林郵便局に通っていますが、通勤路(笑)が狭い。一時停止もたくさんある道なので、なるべく譲るようにしています。頭を下げてくれる人に出会うと、なんか「いい日だなぁ」と思います。

 枡野俊明さんもその著書『迷ったら、ゆずってみるとうまくいく』(クロスメディア・パブリッシング)の中で、「ゆずる気持ち」の大切さを説いています。なるほどそうですよね。(笑)

 エレベーターや駅の自動改札、狭い道などでタイミングが同じになって、人とかち合ってしまい、どうしようかと迷うことがよくあるものです。

 そうしたとき、私は「お先にどうぞ」と先をゆずるようにしています。すると、相手はニッコリしてお礼の会釈をしてくれ、ゆずった自分も気持ちよくなります。

 ところが、それが当然のように目を合わさずに無言で先を行く人もいます。そんなときは、「ああ、残念だな」という気持ちにもなります。

 あるいは電車やバスで、席をゆずってもらうのが当たり前のようにお礼のひと言もなく座ってしまう人もいます。そんな場合も気持ちよいものではありません。

 それでも、私は「ゆずる」気持ちを大切にしています。お互いにニッコリ笑顔で心地よく過ごせるように、ゆずり合いの気持ちをいつも持っていたいからです。

 気持ちよくゆずることができた日は、「今日は調子がいいな」と明るい気分で過ごせます。

 

誰かの『ために』ではなく、誰かを『思い』やる。

 さすがに今日は「危険日」ということで、朝の収穫作業が終わった後は、自宅で大人しくビデオで「敦煌」を見てました。なかなかロマンがあって、原作を読みたくなりました。さすが井上靖。(笑)

九百年間、眠り続けた仏典四万巻。敦煌文書を巡る雄大なロマン。
西域の夢の都・敦煌の衰亡を描く不朽の名作。
日芸術大賞受賞作。

 午後2時過ぎに、もう大丈夫だろうと思って農作業をスタートしましたが、いやいやなんのなんの、たちまち大量の汗が・・。這う這うの体で撤退してきました。ただ単に洗濯物を増やしただけでした。(笑)

水分補給だけではなく「鉄分」補給もお忘れなく。

 ところで、夫がよく言うセリフで「俺は、お前たちのために頑張って仕事してきたんだ!! なのに・・・」。この「なのに」がくせ者です。「見返りを期待」しているので、問題勃発です。(笑)

 この心理を元メジャーリーガー、イチロー氏は、あるとき次のようなコメントをしました。抜粋して引用します。なるほどです。

『何かのために』は聞こえは良い。
でも時に思い上がっているようにも思える。
人間関係においても言えることだが、
誰かの『ために』やろうとすると
厄介な問題になることがある。
しかし、誰かを『思い』
何かをすることには、
見返りを求めることもなく、
そこに愛情が存在しているから、
不幸な結果になることが少ないように思う。  

 

お願いではなく感謝

 今日も朝ちょっとした収穫作業だけで、大汗かいてシャワーを浴びました。日中の作業は危険なので、「そうだ!! 鷲巣山 文殊に行こう!!」ということで、八幡町に足を運びました。

 うさぎ年の守り本尊が文殊菩薩だそうですが、「守ってください」とお願いするのではなく、「守っていただいてありがとうございます」と挨拶するのが、神様から守ってもらえるコツだそうです。(笑)

文殊堂参道

本殿

「そば処蕃山」で見つけた色紙

 ところで、小林正観さんの著書『宇宙が応援する生き方』(致知出版社)の中で、「今、自分がどれほど恵まれているかに気づきなさい」と提唱しています。だから、神社に行ったら、「お願いではなく感謝」なんですね。抜粋して引用します。 

思いを持つということの百八十度の対極には何が存在するか。 

それは「ありがとう」という言葉です。 

いいですか? 

私たちは、あれが欲しい、これが欲しい、こうならなければ、ああならなければ、達成目標、努力目標などと言っている間は、実は感謝の心と一番遠いところにいるのかもしれないのです。

今、自分がどれほど恵まれているかを気づかないのです。 

そう言うと、七十歳ぐらいの人がこう言いました。

「正観さん、そうは言うけれども、自分は三年前から腰が痛い。この腰が痛い間は、ありがとうなんて言えない。腰痛がなくなったら、ありがとうと言えるけど」って。 

そこで私は編み物はしないけど、ニット笑った。 

「そうですよねえ、そうですよね。その腰痛が治ったら神様に感謝できますって、あなたは言っているんですよね。

でもたぶん、腰痛が治った段階で、あなたは神様にありがとうと言わずに、次のことを要求しますよね。

今度は『孫が第一志望の大学に入ってくれたら、神様に感謝できるんですけど』って、そう言いますよね」 

そうしたら、その七十歳の方はこう言いました。

 「どうして私が考えていることがわかるんですか?」 

ぴったりだったらしいです。

その人の第一希望は腰痛がとれることだったのだけれど、第二希望は孫が第一志望の大学に受かることなのだそうです。

それを一所懸命念じていたらしい。

だから、どうしてわかるんだって驚いていました。 

結局こういう人は、何かが叶ったとしても、必ず次から次へと要求を繰り返すのです。

自分の夢や希望や、手に入れたいものを挙げ連ねて、次から次へと要求するのです。 

でも、夢や希望が叶ったから「ありがとう」と言うのは、どうも ありがとうの本質とは違うみたいです。

「能天気な人」と「楽観的な人」と「悲観的な人」

 朝5時頃、東の空を見ると、なんとなく暑くなりそうな雰囲気でした。午前中は「農学講座」だったので、クーラーのきいた部屋で天国でしたが、午後からの農作業は予定どおりムシムシ、汗がダラダラ。無料ダイエットです。

 今日の農学講座で、初めて知りましたが、トマトの原型は「ミニトマト」なのだそうです。大玉トマトは品種改良を重ねて出来たもので、ミニトマトの方が作りやすいのだそうです。今年は大玉トマトに限って「尻腐れ病」が発生して四苦八苦。ちょっとへこんでいたので、「なんだそうかぁ」と納得しました。即、立ち直りました。(笑)

朝5時。ムシムシ感満載の東の空。

イカは元気に育っています。

 ところで、永谷研一さんが、「能天気な人」と「楽観的な人」と「悲観的な人」の特徴を解説していました。なるほど、私は悲観的ではないと思いますが、たぶんに「能天気な人」です。(笑) 抜粋して引用します。

・・うまくいっている人は、程度の差はありますが、総じて自己肯定感が高く、「根拠のない自信」を持っているものです。

こうした人は、挑戦した経験が多いぶん、他人よりたくさん失敗もしているはずですが、失敗をしていても「この失敗は乗り越えられる」と楽観的に考えています。

では、みなさんは、「能天気な人」と「楽観的な人」の違いが何かわかりますか? 能天気な人は、深く考えていない「天然」な人ですが、楽観的な人はそうではありません。「より深く考えている」人なのです。

そして、楽観的の反対に、悲観的という言葉があります。この違いもわかりますか?

何かことにあたるとき、実は、楽観的な人も悲観的な人も、同じように「何かまずいことが起こるかもしれない」とは考えています。違いは、楽観的な人は「でも、それを乗り越えられるはずだ」と捉えているということです。

たとえば、岩場の下にいるザリガニを捕まえようとしている場面を想像してください。能天気な人は、何も考えずにとりあえず手を入れて、挟まれて痛い思いをしてしまいます。

楽観的な人というのは「手を入れたら挟まれて痛い思いをするかもしれない。挟まれないように気をつけて、そっと手を入れよう。ただ、万が一、挟まれたとしても、たいした怪我じゃないからチャレンジしてみよう」というように考えます。

一方、悲観的な人はどうかというと、「大きなザリガニがいて、挟まれた途端に指が切れて血がドバーッと出て大怪我をしたらどうしよう……」といった思考にはまってしまいます。

これはさすがに極端な例かもしれませんが、私が言いたいのは、楽観的な人も悲観的な人も、双方ともちゃんと「リスクを考えている」ということ。

ただ、悲観的な人が過剰に警戒をしてしまう一方で、適度にリスクを考えられるのが楽観主義者です。その意味では、楽観的な人にも悲観的な部分があり、単なる能天気とは違います。

そして、楽観主義者は行動しますが、悲観主義者は殻にこもって行動できなくなってしまうのです。