元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

「私」という概念は「他者」があってこそ成り立つ

 今日は、「チンゲン菜」と「小松菜」の播種を行いましたが、「毛細管現象」を活用した、「鎮圧」作業を行いました。

 毛細管現象(もうさいかんげんしょう)とは、【細い管状物体(毛細管)の内側の液体が、外部からエネルギーを与えられることなく管の中を移動する物理現象である。】です。(笑)

 つまり、畑の土が「毛細管」であれば、「土の下の水分を種に届くように吸い上げてくれる」ということです。そのためには、植えた後に板等で鎮圧して、なるべく土と土の間を狭めるようにする作業が有効である。と先日の農学講座で教えられたので、早速実行してみました。(笑)

毛細管現象を活用した鎮圧作業

 ところで、先日無人販売の陳列を行っていた時に、高齢のご婦人が、「あら、100円なの? 安いわねぇ・・」と声をかけていただきました。せっかくなので「今日のお薦めは、フキノトウですよ」と案内しました。すると「あら、もうフキノトウの季節なのねえ。物価が上がって毎日生活するだけで大変だから。季節を感じてる暇もないのよねぇ・・」とのこと。

 確かに、日本はこれまで経済を飛躍的に成長させ、そのおかげで私たちは便利で豊かな生活を享受してきました。一方で、経済成長を優先させるあまり、地球環境に負荷がかかったり、富が特定の人に集中し、日々の生活さえままならない人が以前より増えていることも確かです。

 「ふうどばんく東北AGAIN」さんの食糧支援の量も人数も倍増しているようです。松波龍源さんが、その著書『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)の中で、「自分だけ利益を得ればいいという態度は結果的に崩壊を招き、自らを苦しみに陥れることになる。」と警鐘を鳴らしています。抜粋して引用します。

・・矛盾が目立つようになってきている資本主義そのものについて考えてみます。資本主義の性質上、短期的・個別的な利益の追求が最適解となりがちです。

従業員のプライベートを犠牲にしてでも会社の売り上げを伸ばそうとする経営者や、相手を陥れてでも自分の利益を確保しようとする人もいます。

しかし、それで世の中が回らなくなってきているのは冒頭で述べた通りです。短期的・個別的な利益の追求が一概に悪いわけではありませんが、長期的・全体的な利益を重視することが、ポスト資本主義的な社会といえるのではないでしょうか。

長期的・全体的な利益の重要性は、仏教の「中観ちゅうがん」「唯識ゆいしき」で説明することができます。

本書で詳しくご説明していますが、中観とは「あらゆるものごとは因果関係と相対性を持つ。ゆえに万物に絶対的、独立的な実存性はない」という考え方。

唯識とは「ただ認識がある」との文字通り、「あらゆるものは何かに認識されることによってのみ存在する」という考え方です。

この考えを前提にすると、「私」という概念は「他者」があってこそ成り立ちます。なぜなら、広い宇宙に自分一人しかいなければ、「私」という概念は必要ないからです。

だとすれば、他者が存在することで「他者ではないものとしての私」が確定し、逆に「私」がいるからこそ他者の存在も確定するという相互関係も見えてきます。すると、「私」は、他者と関わらずに自分だけで存在することはできないとわかるでしょう。

たとえば製造販売の会社なら、買ってくれる顧客はもちろん、部品を提供してくれる取引先がいなければ成り立ちません。

だから、自社だけ儲けようとして下請けを締めつけたりすると、必ずどこかでひずみが生じる。局所最適を目指すあまり、全体が崩壊してしまうのです。

すべてのものは周囲とのバランスで成り立っているので、自分だけ利益を得ればいいという態度は結果的に崩壊を招き、自らを苦しみに陥れることになる。反対に、他者の利益を考えることは、他者と切り離せない「私」の利益を考えることにもなります。

これが、仏教の基本的なスタンスです。