元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

慈愛に溢るる親の心、敬愛に溢るる子の心、相愛に溢るる夫婦の心。

 あまりの暑さに疲労困憊です。(笑) 今日は、朝の水やりだけで、早々に撤退してきました。

 

 ちょうどいい「自由時間」となりました。9月12日に、講話を依頼されているので、原稿づくりをしました。

 テーマは次の格言についてです。

 「慈愛に溢るる親の心、敬愛に溢るる子の心、相愛に溢るる夫婦の心、それが人生である。」

 確かにこのような人生なら、理想的な人生であり、幸せに違いがありませんが、現実はそうではありませんよね。

◇ 慈愛に溢るる親の心

 ・子供なら、親の面倒を見るのが当たり前だ。イライラ。

 ・孫がうるさくて大変。面倒なんて見たくない。イライラ。

◇ 敬愛に溢るる子の心

 ・耄碌しやがって、早くくたばりやがれ。イライラ。

 ・親の介護が大変。仕事もできない。なんとかしてくれ~。イライラ。

◇ 相愛に溢るる夫婦

 ・老々介護が大変。イライラ。

 ・夫が、粗大ゴミとなって、大変。イライラ。

 ・いつまで、夫の食事を作らなきゃならないの。イライラ。

老々介護

と、「イライラだけが人生さ!!」になってしまっています。(笑) 小林正観さんが、「イライラさせる人は存在するのか?」ということを書いています。抜粋して引用します。(「100%幸せな1%の人々」中経出版より引用)

 先日、「イライラさせる人がいるわけではないんですね」と何気なく言ったところ、ある女性から次のように言われました。

 

 「私は結婚して20年ほど経ちますが、姑や家族の問題で、ずっとつらい思いをしてきました。イライラさせる人がいるわけではない、という話は納得できません。実際に、人をイライラさせる人が世の中にはいるのではありませんか?」

 

 そこで、私はその女性に聞きました。

 「ある人が私の前に現れたとします。何かを言ったり、通り過ぎていったりしたとします。その人に対して、『私』が何も感じなかったとします。では、その人は『イライラさせる人』でしょうか?」

 「もちろん、違います」

 「そうですよね。では、その現れた人に対して、『私』がイライラを感じたとします。その人は『イライラさせる人』でしょうか?」

 「そうですよね。そこに『イライラさせる人』がいますよね」

 「ではもう一度聞きます。はじめの例で『私』が何も感じなかったときは、目の前の人は『イライラさせる人』ではなくて、私がイライラを感じたときに『イライラさせる人』になったのですよね?」

 「……」

 その女性は黙り込んでしまいました。

 「『私』がイライラしたとき、はじめて目の前に『イライラさせる人』が生まれた。では『私』がイライラしなかったら、『イライラさせる人』は生まれない」という事実は、多分、誰にも否定できないことでしょう。「自分が思う」ことで、「イライラさせる人」を出現させているのです。

 

 仮に、「イライラする自分」(と同時にイライラさせる人)が出現したなら、前述したように、イライラする「私」を「私」が変えてしまえばいいのです。

 世の中に「イライラさせる人」がいるわけではなく、「イライラする人」が生まれて、はじめて「イライラさせる人」が生まれます。同様に、「イヤなこと」「イヤな人」というのも、宇宙的には存在しません。

 「私」が、ある出来事、ある現象について「イヤなこと」と思ったとします。もし思わなければ、その出来事は無味無臭のまま、目の前を通り過ぎていった、何でもない現象でした。それを「イヤなこと」と「私」が思った瞬間に、「イヤなこと」になった。「イヤなこと」がはじめて目の前に出現したのです。

 

 「イヤな人」も、まったく同じです。「イヤな人」と「私」が思った瞬間に、「イヤな人」が目の前に、宇宙に、出現したのです。では「つらいこと」や「悔しいこと」はどうでしょう……。すべて同じです。そう「決めつける」私の「心」によって、そういう現象がはじめて生まれます。私の「心」こそが、私のまわりに「幸せ」や「福」を作っているのです。

 すべては、自分が作り出している世界だということですよね。(笑) だとすれば、「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」ということなのだと思います。かな?(笑)

 

 こんなことを伝えてこようかと思います。