元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

老衰という名の寿命

 昨日は、借りてきていたビデオを見ました。原作を読んだ記憶があり、「そういえば、映画は見てなかったなぁ~」と思い、2015年に上映された「天空の蜂」です。

Amazon.co.jp: 天空の蜂を観る | Prime Video

1995年8月8日。最新鋭の超巨大ヘリ《ビッグB》が、突然乗っ取られ、福井県にある原子力発電所「新陽」の上空に静止した!遠隔操縦によるハイジャックという驚愕の手口を使った犯人は〈天空の蜂〉と名乗り、“日本全土の原発の破棄”を要求。従わなければ、大量の爆発物を搭載した《ビッグB》を原子炉に墜落させると宣言する。機内に取り残された子供の父親であり《ビッグB》を開発したヘリ設計士・湯原(江口洋介)と、原発の設計士・三島(本木雅弘)は、上空の子供の救出とヘリ墜落の阻止をするべく奔走するが、政府は原発破棄を回避しようとする。(C)2015「天空の蜂」製作委員会

 原作は、1998年に書かれていたものですが、「まんま」でした。(笑) 「見たいものだけ見る」。つまり、「見たくないものは、スルーする。」のが人間の性(さが)なのかもしれませんね。近頃の様々な問題、事件、現象は、その結果なのでしょうね。

 

 では、こんな世の中をどのように生きていくのか。リーダーになって、世の中を変えていく役目を負った人たちは、「そんな考えじゃダメだ」と否定するかもしれませんが、その人もまたその人のなりの人生のシナリオがあるということだと思います。

小林正観著:100%幸せな1%の人々」(中経出版)
・・ものの見方を考えていくときに、多くの人が必ず出会う問題があります。それは、「病気や事故、死亡というものは不幸ではないのか」、ということです。

 結論から言いますと、病気も事故も死去さえも、不幸というものではありません。
病気をした人は、必ず、「より優しい人」になります。十分優しい人でも病気をするのですが、その人はもっと優しさを持った人なので、それを思い出しなさいという意味での病気らしいのです。

 本来とても優しい人であったはずなのに、いつの間にか競争社会の中に埋没して、人と争うことばかりしてきた人は、体の奥底の部分で「今の生き方は少し違うのではないか、もうちょっと元の私に戻ってほしい」と悲痛な叫びを上げています。その結果として、優しい人に戻ろうとする。その場合に、体が「病気」というかたちをとるようです。病気になった人は、必ずまわりの人に対してより優しくなる。そういう結果をともなっています。

 同様に、事故を起こした人は、より謙虚になる。自分の能力や努力、才能ですべてのことをやっているんだと思うようになってしまった人は(それを傲慢というのですが)、その結果として、必ず事故を起こすようになっています。事故を起こした人は、必ず、より謙虚になります。

 その病気や事故が不幸でないとして、「それでは、その病気や事故の結果として死んでしまうことがあるのではないか。死ぬことは不幸ではないか」と言う人がいると思います。

 結論を言いますと、死ぬことさえ不幸ではありません。死ぬこともすべて、生まれる前に「自分が書いたシナリオ」であるということです。私たちは自分のシナリオどおりに生まれ、自分のシナリオどおりに死んでいきます。私たちは、どういうところで生まれ、どういう名前で生まれ、そしてどのような人生を経ていつ死んでいく、ということを全部シナリオで書いてきたらしいのです。

 ですから、私たちが死ぬときは、偶発的に死ぬわけではなく、必ずそのときに、その事情で死ぬことになっているらしい。不運・不幸で死ぬわけではなく、予定どおりに、「シナリオどおりに死んでいく」ということにほかなりません。

 「あれをしなければ死ななかった」とか「もう少し別の選択をしていれば死ななかったのに」とか、そういうことはどうもないようです。シナリオのまま、私たちはただ予定どおりに死んでいくらしい。

 私たちは、「病気」で死ぬわけではなく、「事故」で死ぬわけではなく、「老衰」で死ぬわけでもない。死ぬのは「寿命」だけ。病気という名の寿命、事故という名の寿命、老衰という名の寿命で死んでいくのです。単なる「寿命」でしか死なない。たまたまそれが老衰で死ぬときは寿命という言い方を一般的にしますが、実は、病気も事故も、すべて寿命です。

 予定どおりに、シナリオどおりに死んでいくということが、私の結論です。ですから、病気も事故も死亡さえも、すべて不幸や悲劇なのではない、といえます。
すべては「自分の書いたシナリオどおり」に起きています、

 こう捉えることが出来たら、まさに「自分の人生」となるのでしょう。