元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

出勤は「悪」、農作業は「善」

 昨日は、出勤日でしたが、机に向かうだけで疲れを感じるようになり、いよいよ「野生児」に近づいてきました。(笑) 疲れを癒したのは、あったかーい「おでん」。ビールを飲んで、まいうー。日本酒でまいうー。ありがたや、ありがたや。(笑)

おでんの美味しい季節になりました。

 ということで、今日は机に向かう必要のない村民総出の「日光唐辛子収穫日」でした。な、なんと30kgを収穫しました。過去最高、史上最高の収穫量です。やったー・・。

 疲れてはいますが、「心地よい疲れ」です。体にいいこと間違いありません。

 

 が、ところで、ふと思うと、今私は、出勤は「悪」、農作業は「善」と色をつけています。と、すると「悪」と定義した出勤は、私にとっては苦痛になるということです。(笑)

 色即是空について、小林正観さんの解説を引用します。

 小林正観著:「100%幸せな1%の人々」中経出版

 般若心経の中に「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉があります。「色(しき)」とは、かたちあるもの、目に見えるもの、手につかめるもの、というような意味です。もともとは人間の肉体のことをいいましたが、のちには色情、色欲というような意味にとらえられるようになりました。狭い意味では、肉体という意味でしたが、のちに、かたちあるもの、目に見えるもの、手につかめるもの、そういう物体を意味するようになりました。

 「色即是空」の意味は、「形あるもの、目に見えるものは必ず滅するものである、命あるものは必ずなくなるものである、常なるものはない」というのが従来の考え方でした。「むなしいものである、実体のないものであると思いなさい」というのが、「空(くう)」の解釈だったのです。

 しかし私は、お釈迦様はもう少し違うことを言いたかったのではないかと思っています。違う意味というのは「空」というのは、無色透明で中立(ニュートラル)である、という意味ではないかということです。「色」とは、評価・論評を加えた現象のことをいうのではないか。そして「空」とは、評価・論評を加えない現象をいうのではないだろうか、と思うようになりました。

 たとえば、重い・軽い、大きい・小さい、高い・低い、暑い・寒いなどは、評価・論評を加えた現象であり、反対に重さが10㎏であるとか、高さが1mであるというのが、評価・論評を加えていない状態、すなわち「空」なのではないでしょうか。
 「空」とはむなしいものではなく、存在しないと思いなさいというものではなく、もともと現象として存在するすべてのこと、それがすべて色がついておらず、何も絶対的な意味を持たずそこに存在している、という意味で「空」だったのではないかと思うのです。中立でニュートラルであること、透明であること、色がついていないこと、それが「空」の本当の意味ではなかったでしょうか。

 コップに水が半分あるとします。「半分しかない」と思えば、不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句の対象になります。不愉快で不機嫌な現象になります。逆に、「半分も残っている」と思えば、嬉しく・楽しく・幸せ(う・た・し)な現象になります。喜びの対象になるのです。同じ現象を見ても、とり方によってまったく異なります。
 200ccのコップに100ccの水が入っているということが、とりもなおさず「空」であり、それを「半分しかない」と思うことも「半分もある」と思うことも、「色」だというふうにお釈迦様は唱えていたように思うのです。

 「ああ、あの人は不幸に遭った」とか「悲しい出来事に遭っているんです」とか、私たちは普通に口にしていますが、実はそれを口にした時点で、すでに評価・論評を加えているということにほかなりません。「現象は常にニュートラルである」「色がついていないんだ」ということを考えたとき、これはお釈迦様がメッセージとして私たちに伝えていたように思います。

 私たちの日常生活というのは、実はとらえ方の違いによって成り立っているのではないでしょうか。私たちの目の前にある悲しみ、つらさ、苦悩、煩悩というのは、すべてもともとは「空」なのだよ、ということを言っていたような気がします。

 「不幸も悲劇も存在しない。そう思う心があるだけ」という意味で、世の中はすべて「空」。同様に「幸福」という現象も存在しない。それを「幸福」と思うか「不幸」と思うかは、すべて私の心しだいなのです。