今日から無人販売を再開しました。出品した野菜は、ピーマン、こかぶ、日光唐辛子、ジャガイモ、そして「新米(つや姫)」です。
陳列後、隣のD2に買い物に行きました。「あっ、写真撮るの忘れた」と思い、引き返したら、もう「新米」と「こかぶ」が売れていました。驚きです。郵便局からも「再開はまだですか? という問い合わせが、いっぱいありましたよ」とのこと。うれしいですねぇ。ありがたいですねぇ。感謝ですねぇ。猛暑で散々な目にあったので、喜びも倍増です。(笑)
ところで、「幸せと不幸」はワンセットという小林正観の言葉があったので、引用します。この考えだと「猛暑があったから幸せが倍増した」ということになります。(笑)
「幸せと不幸」について、もう1つ思い至ることがあります。
それは、「幸せと不幸は『たまご構造』。それも、ゆでたまごではなく、生たまごだ」というものです。
たとえば、「おいしい」という概念の前段階として、必ず「空腹だ」という概念が存在します。「空腹」という現象が存在しなければ、「おいしい」という現象が存在しない。同様に、「のどが渇いた」という現象がなければ、「のどの渇きが潤せた。嬉しい」という現象が存在しません。
さらに考えるに、「空腹であればあるほど」おいしさは増加する。逆に、空腹が小さいものであれば、おいしさも小さい。あきらかにその量は連動しています。「おいしい」という「幸せ」を味わうためには、どうやら「空腹だ」という「不幸」を味わわねばならない、というのが宇宙構造のようです。
では、「空腹」という現象と「おいしい」という現象は、個々に独立しているわけではないのではないか、と思うようになりました。「空腹」と「おいしい」は「1+1=2」というかたちで存在しているのではなく、「半分と半分、1/2+1/2=1として存在しているように思えます。「空腹」と「おいしい」は足して1つになるのであって、独立した現象ではない。「空腹」と「おいしい」はワンセットであり、「空腹」は「おいしい」という「幸せ」の前半部分の現象だ、とも考えられるのです。
同じように、四季(春夏秋冬)を考えてみましょう。夏、これ以上暑くなったら生きていけないと思うほど気温が上がります。その後に来る秋は、本当に風が涼しく、心地よく感じられます。夏が暑ければ暑いほど、秋の爽やかさが「幸せ」です。
冬、これ以上寒くなったら生きていけないと思うほど、気温が下がります。北風がヒューヒュー吹き、寒さに震えます。その後に来る春のほのかな暖かさは、本当に楽しく、嬉しいものです。
夏暑ければ暑いほど、秋の涼しさが「幸せ」になる。冬寒ければ寒いほど、春の暖かさが「幸せ」になる。
夏と秋がワンセット、冬と春がワンセットになっている・・・。宇宙は、幸せと不幸の構造が、実はこういうものなのだよ、と、人類の前にずっと、四季というかたちで提示し続けてきたのかもしれません。
一般的な「不幸」が「幸せ」の前半分である、という構造は、実によく「たまご」の構造に似ています(鶏卵を想像してもらうとわかりやすいと思います)。「幸せ」を味わうためには(おいしさを味わうためには)、「不幸」と一般的に思われること(おいしさに対する「空腹」)が通り過ぎたところにしか「おいしさ」が存在しません。空腹=たまごの白身、おいしさ=たまごの黄身です。
「空腹」(=白身)の中に、「おいしさ」(=黄身)が抱かれている。
しかし、この「たまご構造」は「生たまご」でなければなりません。生たまごは、割って器に入れ、シャカシャカとかきまぜてしまうと、境界線がなくなり、みごとに溶け合ってしまいます。1度かきまぜたら、それを白身と黄身に分けることはできません。なぜなら、白身も黄身も本質は同じだからです。