元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

「見えない世界」は「わからない世界」

 今日は、全国の青年たちが石巻市長浜緑地に集い「東日本大震災慰霊供養」が執り行われました。地元からのお手伝いということで、私も参加してきました。供養とは「供に養う」と書きます。御霊となった方々が「安らかであるように」と祈りを込める私たちの気持ちも、安らかになったような気がします。

 昼食は牛タン弁当でした。まいう~(笑)

利久の牛タン弁当

 ところで、修養団・元伊勢道場長、中山靖雄さんが「見えない世界」について解説していましたの引用します。

中山靖雄著:『すべては今のためにあったこと』海竜社

・・多くの人にとって「見えない世界」は「わからない世界」です。

でも、わからないからこそ、自分で感じ取ろうとすることです。

まずは、なんとなく、なんとなく感じることから始めてみる。

これが出発点です。

 

私たちは、親から生まれてきました。

そして自分の親もおばあちゃんから生まれてきました。

そのおばあちゃんはひいばあちゃんから、ひいばあちゃんはひいひいばあちゃんから、というように親から親へと延々とつながって今がある。

このように、ずっとずっと命が続いてきたということはなんとなくわかっています。

「目に見える世界」では、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんの代までならよくわかるけど、その先のことはほとんどわからないですよね。

しかし、ただ、ずっと続いてきた命の結果、私は生まれてきたんだなぁ、ありがたいなぁ、となんとなく感じる、これが「目に見えない世界」なのです。

なんとなく感じる、なんとなくありがたいなぁと思う、この感覚です。

 

「目に見える世界」だけを見て生きていると、「このことがありたい」「あのことがありがたい」と具体的な出来事だけをとらえて考えるので、「このことはありがたくない」という事柄が出てきてしまう。

すべて理屈の世界になってしまうのです。

「目に見えない世界」に目を向けると、「なんとなくありがたい」という思いが、ふとふと、湧かされるのです。

ふっとした時に、なんとなく思わされるのです。

 

私たちは、頭で考えて動くことがほとんどですが、たまに、なんとなくそうしてしまった、なんとなくそれが良いと思って行動した、というようなことがありますね。

そういうときは、なぜか物事が流れるようにうまくいったり、結果が同じでも心の中の清々しさが違ったりするものです。

きっとみなさんも感じたことがおありだと思います。

この目に見えない「なんとなく」の世界を昔の日本人は、大切に生きてきました。

あなたがこうしてこの本を手に取ってくださったのもひとつのご縁です。

そして、この「なんとなく」という漠然とした言葉でしか伝えられない世界を、「なんとなく」感じ取ってくださるみなさんがいる。

この目に見えない「なんとなく」を深めていくことで見えてくる新しい世界があるのです。