元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

世話にならないで生きるぞ???

 今日は朝から雨の予報だったので、昨日は日が沈んでも頑張って農作業をしていました。が、なんと今日は朝から太陽がこんにちは。(笑) 慌てて朝食を食べて、畑に直行しました。(笑)

 と、ていうことで今日は遅れていた「サニーレタスの定植」と「トンネルかけ」を行いました。1日儲けました。やったー。

サニーレタス定植作業

定植後、トンネルをかけました。

ちょっと「おしょしい」大根。(笑)

 ところで、「俺はきちっとやっている」「迷惑なんかかけてない」「俺の生き方は正しい」と、ちょっと鼻につくような人がいます。傍目では、そんなに立派に生きているとは思えないのですが・・・(笑)

 小林正観さんが、「迷惑かけなければ生きていけない存在」について解説していますので、引用します。

 小林正観著:「100%幸せな1%の人々」(中経出版)

すごく怒っている人がいました。
「人に迷惑をかける生き方はしたくない。自分も人に迷惑をかけない分、人に迷惑をかけて生きている人は許せない。とくに暴走族などは迷惑ばかりかけているのではないか」というような話をされました。

暴走族が迷惑をかけていない、ということを言いたいのではありません。「私は迷惑をかけていないけれども」ということについて、ちょっと気になりました。
「私は人に迷惑をかけていないが」という考え方の中には、「私は何も迷惑をかけずに自分の力で生きている。私は正しく生きている」という意識があるように思います。
本当にそうでしょうか?

人間は、たくさんのもの、人、動物、植物に迷惑をかけながら生きているのではないでしょうか。生きていくために米や麦を何百万粒と殺し、生涯に魚を何千匹、牛やブタをまるごとで言うと何頭、何十頭食べてきたかわからないのです。

山道をクルマで走っているときに、アリが必死になってものを運んでいるその行列をタイヤで踏みつぶしてきたかもしれません。刺されたと言っては、腕に止まった蚊をバシッと叩き殺し、食卓に止まったハエをハエ叩きで殺していたかもしれません。
ただそれに気がついていなかっただけなのです。自分が生きるためにどれほど他の動物や生物たちに迷惑をかけてきたか、わかりません。

「迷惑をかけないで生きるぞ」というのは一面では正しい考え方かもしれません。しかし、もう一歩進んでものを考えると、「人間は他の存在物に対して迷惑をかけていない」ということなどありえないと気づきます。
「迷惑をかけなければ生きていけない存在である」ということに、考え方を変える方がよいのではないでしょうか。

「迷惑をかけていない」と思うこと、あるいは「迷惑をかけないで生きていくぞ」と決意することよりも、「迷惑をかけている存在なのだから、その自分を支えてくださっている存在物たちに対して心から感謝をし、感謝しながら生きていく」ことの方がずっと前向きでラクなのではないでしょうか。

「私は人に余分な世話をかけたくない。そういうふうに老後を生きたくない」と言った方がおられました。
そういう考え方も間違っていないと思いますし、その方向で生きるのはよいと思いますが、人間は生きていること自体、まわりに迷惑をかける存在であり、まわりにお世話をしてもらっているということにほかなりません。 

「世話にならないで生きるぞ」とかたくなに決意するよりも、「自分は無力でたいしたものではないのだから、人に世話をかけながらでしか生きられない」と思い、まわりのすべてのものたちに感謝し、手を合わせて「ありがとう」と言いながら生きていくことの方が、ずっとラクに生きられる気がします。