元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

蓮は泥土に長養せられて麗花を開く

 この季節はひたすら草取り。草取りの無限ループです。(笑) ひたすら地を這い、昔懐かしい♬DISCOを聞きながら、途中で立って踊りながら草取りをします。何も考えません。(笑)

トウモロコシも順調です。

これからはVSカラスです。(笑)

真面目に草取りをしていると天国からの階段が現れました。

 ところで、人間は遅かれ早かれ土に還りますが、ひすいこたろうさんが、その著書「あした死ぬかもよ?人生最後の日に笑って死ねる27の質問」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の中で、「死を生きるためのスイッチにしなさい」と提唱しています。なるほどです。抜粋して引用します。

・・どういうわけか、人は、「自分だけは死なない」と思っています。「死ぬのはいつも他人ばかり」。画家のマルセル・デュシャンが、そう墓碑銘に刻んだように。

でも、残念ながら、僕らが死にいたる可能性は100%です。「オギャー」と、うぶ声をあげた瞬間から、1秒1秒、いまこの瞬間も死に近づいています。

 かつてサムライたちが、あれだけ潔く、情熱的に生きられたのは、「自分はいつか死ぬ身である」という事実から目をそらさずに、「この命を何に使おうか」と、日々心を練っていたからです。死をやみくもに恐れるのではなく、サムライたちのように、死を、ちゃんと「活用」しませんか? 

 死は、生を完全燃焼させるための、最高の「スイッチ」にできるんです。いつか死ぬ身であることがハートに落ちたとき、人は自分のほんとうの気持ちを取り戻す。

 お釈迦様の花と呼ばれる蓮の花。蓮の花は、きれいな水の中で大輪の花を咲かせることはできません。池の水が汚れているほど、美しく大きな花を咲かせます。そして、その花びらは3日で散っていきます。たとえ3日の命でも、自分らしさを咲かせたならば、それは美しい生き方になります。

 それが命というものです。ありのままの自分で、その湧き上がる本心から生きたとき、たとえ3日の命でも、そこに後悔はない。それが命というものです。「死」と向き合うことで、ほんとうの自分(本心)に会いに行こう。

 人生最後の日に、どんな気持ちになっていたら最高ですか? このままの生き方で、それは達成できそうですか? できないとしたら、いつから生き方を改める?