大雨の後は、30度越えの夏日。今日は「ナスの芽欠きと誘引作業」を中心に、爽やかとは言えない、ジトっとした汗をかきながらの一日でした。たぶんは晩酌のビールは最高に美味しいと思います。(笑)
ところで、昨日日曜日の夕方、なにか「ザワッ」とした感覚になりました。えっ?なんでと思ったら、サラリーマン時代の「明日からまた仕事だ」という感覚が蘇ったのでした。「落ち着け!! お前はもう退職している」と自分に言い聞かせて落ち着きました。(笑)
反対に、会社員でなくなった自分の「存在」に不安を感じているのかもしれません。株式会社本物研究所の「代表取締役社長 佐野浩一」さんがそのブログ記事の中で、『存在とは何か』に真摯に向き合った哲学者ハイデガーの話をしていました。
ハイデガーによると、私たちは「存在忘却の時代」に生きているのだそうです。なるほどです。興味深い話なので、抜粋して引用します。
★「死への存在」
「死への存在」とは、人間の存在(=人生)は本質的には「死」に向かっているのだという考え方です。ハイデガーは、私たちの人生には目的はなく、生まれた瞬間から一歩ずつ、死に向かって進んでいるにすぎないと考えました。たしかにそうですが、そう断ち切ってしまっては、元も子もないと感じてしまいませんか?
もし人生が100年間だったとして、たとえば生まれたばかりの赤ちゃんが1年間生きることは、寿命があと99年になるということであり、1年分「死」に近づいたと考えることができます。
さて、いくら実存主義的立場をとる哲学者といえども、ここまででは、なんとも味気ない感覚を覚えてしまわれませんか?
でも、ここからが面白くなります。
★ダス・マン(Das Man)
「ダス・マン」とは、死と向き合うことなく没個性的に生きる人々のことを指します。人間は本来「現存在」なので、自分の生き方を自由に選ぶことができるはずです。しかし、ダス・マンは死を恐れるあまり、死から目を背け、没個性的に生きています。
現代風にたとえるなら、企業の中で上司の命令にただ従っている人は、自分がどうしたいかではなく、「上司がどう思うか」という判断基準で仕事をしています。ハイデガーは、技術革新や大衆文化によって多くの人が個性を失い、自分の本来の生き方とは異なる、他人に合わせた平均的な生き方をしてしまっていると主張しました。
★存在忘却の時代
「存在忘却の時代」とは、人々がダス・マンとなり、固有の存在の仕方を見失う時代のことを言います。存在忘却の時代では、あらゆる物や人が利用されるべき材料としてみなされてしまいます。
たとえば、化粧品を製造する企業は、自社の利益を上げる手段として、「綺麗になりたい」という人々に広告を配信し、化粧品の購入を促しますよね……。この時、人々は1つの企業の利益を上げるための材料として利用されているというのが、ハイデガーの捉え方です。たしかにその通りではあります……。
基本的に、「個人がどのように生きるべきか」に注目する哲学を「実存主義」と言います。「ダス・マン」や「存在忘却の時代」と表現したことは、ハイデガー自身が、「人々が没個性的になり、自分の存在の在り方を考えられていない」と感じていたからです。だからこそ、「個人が自分の本来の生き方を選ぶことを重視した」ということです。
いまの時代、SNSやYouTubeなどで、だれかがなにかを表現するところにつながっていき、それを多様性という言葉で表現するなら、多様な価値観やモノの見方が玉石混淆しています。
そこにどっぷり浸かって、それを個性的、多様性などと表現するとすれば、きっとハイデガーの怒りを買うことになるでしょうね……。
「これからの時代、~を身につけなければ生きていけない」などという話を聞くと、なんとなく焦った気持ちになるものですが、その「○○」自体を「本当に自分がやりたいこと」なのか考えてみないといけませんね。なぜなら、それを身につけるために費やす時間は、あなたの人生そのものだからです。
なんとなく殺伐とした理屈が並べられているとの先入観を持っていたのですが、ハイデガーは、そうではなく個性や個人の尊厳を追求した哲学者だったのだと確信しました。