元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

釈迦牟尼の出した答えは「気にするな」

 昨日は遊び惚けたので、今日は真面目に、でも楽しくワクワクしながら、農作業に勤しみました。(笑)

 今日の作業は、「播種」。文明の利器「種蒔きごんべい」が大活躍です。これを使ううと播種作業が「早い」「疲れない」「簡単」の三拍子です。やめられません。

 また、「フキノトウ」に続いて「タラの芽」も大きくなり出しました。明日、自宅でいただいてみて、美味しかったら出荷します。お楽しみに。

文明の利器「ごんべい」

お待ちかね「タラの芽」

 ところで、出世競争の職場にうんざりしている人たちがいます。人間は、他者との間の中で自分を確立しなければならないので、どうしても「評価」が気になるのは、自然の摂理です。

 では、どう生きていけばいいのかというのを松波龍源さんが、その著書『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)で説明しています。なるほどですので、抜粋して引用します。

・・仏教では、「私」という存在は他者があって初めて成り立つと考えます。一滴の水をイメージしてください。空気中に存在しているときは「その一滴の水」として認識されますが、海や川に流れてしまえば、その一滴を特定することができなくなります。

一滴の水が消えたわけではありませんが、周りが同じ水だと、認識されなくなってしまうのです。

これと同じで、「私」も「私ではないもの」に囲まれているがゆえに認識されます。

つまり、自分の存在を確認するには、自分以外の他者に囲まれて、他者からの認知のリフレクション(反射)として確認するしかありません。つまり、他者に承認させたいという欲求は自分を確立したい欲求とほとんどイコールで、真理に則ったことなのです。

  

・・ここで参考にしたいのが、原始経典に記された釈迦牟尼の言葉です。

何をしても、何かをしたといってある人は非難する。何もしなくても、何もしなかったといってある人が非難する。何かをしてもしなくても、非難する人は非難する。だから他者の声なんて気にせずに、自分の心と向き合いなさい。

同じような言葉を、みなさんも聞いたことがあるでしょう。私がこれに救われたのは、言葉の内容そのものよりも、これを言った人が釈迦牟尼であるという事実です。

あのお釈迦様でさえ、何かといっては文句を言われケチをつけられていたんだ。称賛しかされなかったのであれば、こんな言葉は出てきませんから。そう思えば、自分が文句を言われるのなんて当たり前のことだ、と思ったのです。

結局、釈迦牟尼の出した答えは「気にするな」でした。他者からの意見や批判は真摯に受け止めるべきですが、あなたの価値を決めるのはあなた自身なので、強く生きなさいということです。

何かをしても、しなくても、一定の確率で誰かから文句を言われるんだ、くらいに思っていればいいのです。

ただし、そのためには賢くなくてはいけません。だから仏教哲学を学ぶのですね。「俺イケてるし」と無知蒙昧むちもうまいな状態でいることとは違います。

言ってみれば、称賛も非難の裏返しです。称賛されたときは素直に喜べばいいでしょう。けれどその喜びのあまり、自己認識の軸足を自分から他者に移し替えてしまうと、自分という存在が足場から崩れ落ちてしまいかねません。褒められたりけなされたりするのは、そのときどきの状況でしかないのですから。

 

・・ここまでお話ししたように、「他者に承認させたい」という欲求が湧き上がってくるのは人間として自然なことです。それを踏まえたうえで、私たちはどう行動すればいいのでしょうか。

仏教的に考えると、その答えは「利他」です。

利他とは文字通り、他者の利益のことです。抜苦与楽ばっくよらくという言葉があるように、他者の苦しみを除き、喜びを与えるように振る舞えば、それは自分の喜びにもつながります。抜苦与楽の道は、自利と利他が一致している状態です。

なぜ、他者の喜びが自分の喜びになるのか。これまでお話ししてきたように、自分は他者の存在があってこそ成り立ちますから、「私」の利益と他者の利益は一致します。つまり、他者の利益を考えることが、自己の利益を考えることにもつながるのです。

うわべだけで相手を褒めるような一時的な幸せではなく、根源的な幸せを目指して行動すれば、社会そのものが良くなり、回りまわって自分も受益者になることができます。 

 

ただやることが面白い、楽しいからやるのである。

 桜の開花が始まりました。なので今日は、急遽「そうだ!! 花見に行こう!!」ということで、「桜がきれいで」「あまり遠くなくて」「混まないところ」という三拍子揃った、名取市の「雷神山古墳公園」に行ってきました。

 帰りに、名取市役所前広場で開催されている「市民祭り」にも顔を出し、「セリ鍋と焼き鳥と生ビール」をいただきました。最高でーす!!(笑)

雷神山古墳。東北で一番大きい「前方後円墳」だそうです。

こんな感じの古墳です。

高台から「仙台空港」が見えます。

お目当ての「桜」も綺麗でした。

名取市民祭り「セリ鍋と焼き鳥と生ビール」まいう~

 ところで、「遊び」について、藤原東演住職がその著書『禅、「あたま」の整理』(知的生きかた文庫)の中で、「遊戯三昧(ゆげざんまい)」ということを説明しています。抜粋して引用します。

「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語は、「無門関」の第一則に出てくる。

我を忘れて、無心に遊んでみないか。

仕事も、趣味も、生活でなすことも、さらには人生の運不運もすべて遊び心で生きることがすばらしい。

仕事は成果をあげなくてはならない。

「何かのため」という意味づけが不可欠だ。

ところが、遊びは何かのためにという目的がない。

その成功とか失敗なんか関係がない。

成果など計算したら、それは遊びではない。

人の評価も気にする必要がない。

ただやることが面白い、楽しいからやるのである。

うわさ好きな人って単にコンプレックスの塊

 今日の無人販売の商品は、予定どおり「フキノトウ」でした。その他「雪菜の菜花」と「小松菜の菜花」。そして「大根」。まさに「春を食する」です。まいう~!!

春を食する

 ところで、春爛漫は嬉しいのですが、やはり季節の変わり目は「心が疲れている」方もたくさんいます。キム・ダスルさんがその著書『人生は「気分」が10割 最高の一日が一生続く106の習慣』(ダイヤモンド社)の中で、「心が疲れているときほど、次の3つのことは徹底的に無視しよう。」と提唱しています。なるほどです。抜粋して引用します。

1.他人のうわさや悪口

 自分の生き方に不満がある人ほど他人のうわさ話をしたがる。本当に充実している人は自己研鑽に忙しく、他人のどうでもいいことに関心がないもの。うわさ好きな人って単にコンプレックスの塊で、他人の悪口を言って優越感に浸っているだけ。だからそんなやつらに何か言われても気にすることはない。そんな連中のことで悩むために、時間という貴重なリソースを割くなんてもったいない。

2.他人からの嫉妬

 もし誰かに嫉妬されているようなら、あなたが今とても成功している証拠だ。嫉妬の感情は自分より低レベルだと思う人間に対しては生まれないものだからだ。安物のバッグはうわさにも上らなければコピー商品が出回ることもないけれど、ブランド品はそうじゃない。つまり、そういうこと。

3.自分の弱さを否定すること

 世の中には、強靭なメンタルの持ち主という人種が存在しているように思うけど、実際はそうじゃない。彼らは絶えずメンタルを整えているだけなのだ。メンタルは誰だって揺れ動くもの。強く見える人は、その揺らぎを表に出さず、心の中で静かに整え直しているだけだ。

メンタルが揺らいでも、崩れないで。揺らいだって、そのたびに立て直せばいい。気分は何度でも整えることができる。

 

「公私混同」ではなく「公私同根」

 先日、野菜の無人販売をご利用いただいたお客様から、「フキノトウ、もっと出さないの?」と、ご要望をいただきました。

 なので、今日は大和町里山に再び「フキノトウ」を採りに行きました。ランチは富谷市で、新規開拓。「タンメン」がお薦めの「ひより屋」さんを見つけて入ってみました。まいう~。満足でした。(笑)

お客様、明日の無人販売に出荷します。

ひより屋さんのタンメン
ひより屋 - 富谷町その他/食堂 | 食べログ (tabelog.com)

 ところで、会社員時代、よく出張がありましたが、私は努めてその地域の名産品、特産品、名所旧跡等を調べて、実際に訪ねたり、ご当地グルメを味わったりして、地元の人達との会話が盛り上がるようにしていました。

 一方で、会社からは「仕事に関係のないことはしないように」と指導されたこともあります。(笑)

 株式会社スマイルズ代表の遠山正道(とおやま・まさみち)さんが、「出張の効用」について説明していたので、抜粋して引用します。
次代のビジネスのシーズは社員の個性と情熱の中にある Business Trip for Innovation ―会いにいく、が今日を変えていく。― | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

・・遠山氏は、そうした個人の「気付き」や「ユニークネス」を得るための機会として、「出張=ビジネストリップ」の効用を挙げる。

 「もちろん、ビジネストリップには目的がありますから、ビジネスパーソン個人として、その目的を達成することは大前提。ただ、決められた時間と行程の中でも、自分なりの発見はできると思うんです。私自身は、ビジネストリップに出かけたら、たとえ昼食一つでも『何でもいい』にはしたくないですね。駅前のちょっと寂れた裏通りを歩いてみて、気になるうどん屋を見つけたら、そこに入って食べてみる。タクシーに乗ったら、運転手さんに積極的に話しかけて、地元の話を聞いてみる……つまり、その時、その場所でしか体験できないことを大切にしたいんです。体験から生まれる『自分だけのストーリー』を探しているんです」

 ビジネストリップを自分の興味・関心のために使うことをちゅうちょする人は多いだろう。しかし遠山氏は、普段の何げない生活や旅の中から生まれた『個人的な思い』こそ大切にすべきだと強調する。

 「近年は、ビジネスシーンにおいても多様性が重んじられ、副業を容認する企業も増えてきました。せっかく旅に出る機会を得たのだから、自分の興味や関心に素直になって、そこで得たひらめきや感動を、自分の肥やしにしていったら良いと思います。『ここまでが仕事で、ここからがプライベート』なんて線を引くことは、どだい無理な話。もしも『それは公私混同だ』なんて言う人がいたら『いや、自分にとっては公私同根なんだ』と言い返してやればいいんです」

 

 

「私」という概念は「他者」があってこそ成り立つ

 今日は、「チンゲン菜」と「小松菜」の播種を行いましたが、「毛細管現象」を活用した、「鎮圧」作業を行いました。

 毛細管現象(もうさいかんげんしょう)とは、【細い管状物体(毛細管)の内側の液体が、外部からエネルギーを与えられることなく管の中を移動する物理現象である。】です。(笑)

 つまり、畑の土が「毛細管」であれば、「土の下の水分を種に届くように吸い上げてくれる」ということです。そのためには、植えた後に板等で鎮圧して、なるべく土と土の間を狭めるようにする作業が有効である。と先日の農学講座で教えられたので、早速実行してみました。(笑)

毛細管現象を活用した鎮圧作業

 ところで、先日無人販売の陳列を行っていた時に、高齢のご婦人が、「あら、100円なの? 安いわねぇ・・」と声をかけていただきました。せっかくなので「今日のお薦めは、フキノトウですよ」と案内しました。すると「あら、もうフキノトウの季節なのねえ。物価が上がって毎日生活するだけで大変だから。季節を感じてる暇もないのよねぇ・・」とのこと。

 確かに、日本はこれまで経済を飛躍的に成長させ、そのおかげで私たちは便利で豊かな生活を享受してきました。一方で、経済成長を優先させるあまり、地球環境に負荷がかかったり、富が特定の人に集中し、日々の生活さえままならない人が以前より増えていることも確かです。

 「ふうどばんく東北AGAIN」さんの食糧支援の量も人数も倍増しているようです。松波龍源さんが、その著書『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)の中で、「自分だけ利益を得ればいいという態度は結果的に崩壊を招き、自らを苦しみに陥れることになる。」と警鐘を鳴らしています。抜粋して引用します。

・・矛盾が目立つようになってきている資本主義そのものについて考えてみます。資本主義の性質上、短期的・個別的な利益の追求が最適解となりがちです。

従業員のプライベートを犠牲にしてでも会社の売り上げを伸ばそうとする経営者や、相手を陥れてでも自分の利益を確保しようとする人もいます。

しかし、それで世の中が回らなくなってきているのは冒頭で述べた通りです。短期的・個別的な利益の追求が一概に悪いわけではありませんが、長期的・全体的な利益を重視することが、ポスト資本主義的な社会といえるのではないでしょうか。

長期的・全体的な利益の重要性は、仏教の「中観ちゅうがん」「唯識ゆいしき」で説明することができます。

本書で詳しくご説明していますが、中観とは「あらゆるものごとは因果関係と相対性を持つ。ゆえに万物に絶対的、独立的な実存性はない」という考え方。

唯識とは「ただ認識がある」との文字通り、「あらゆるものは何かに認識されることによってのみ存在する」という考え方です。

この考えを前提にすると、「私」という概念は「他者」があってこそ成り立ちます。なぜなら、広い宇宙に自分一人しかいなければ、「私」という概念は必要ないからです。

だとすれば、他者が存在することで「他者ではないものとしての私」が確定し、逆に「私」がいるからこそ他者の存在も確定するという相互関係も見えてきます。すると、「私」は、他者と関わらずに自分だけで存在することはできないとわかるでしょう。

たとえば製造販売の会社なら、買ってくれる顧客はもちろん、部品を提供してくれる取引先がいなければ成り立ちません。

だから、自社だけ儲けようとして下請けを締めつけたりすると、必ずどこかでひずみが生じる。局所最適を目指すあまり、全体が崩壊してしまうのです。

すべてのものは周囲とのバランスで成り立っているので、自分だけ利益を得ればいいという態度は結果的に崩壊を招き、自らを苦しみに陥れることになる。反対に、他者の利益を考えることは、他者と切り離せない「私」の利益を考えることにもなります。

これが、仏教の基本的なスタンスです。

 

 

失敗は新しい発見のもとになる貴重な体験

 今日の作業はジャガイモ植え。残っていた「とうや」と「男爵」を植え終わりました。これで順調に育てば、6月中旬頃の収穫となります。あとは、葉物類の播種のため、ひたすら「畝立て、畝立て、畝立て」。

 今年は時間がたっぷりあるので、今まで作ったことのない「グリーンカール」や「ごぼう」等にもチャレンジしてみたいと思います。でも野菜作りのチャレンジは、基本1年に1回のみですので、失敗したら翌年まで再チャレンジは出来ません。まぁ、時間はたっぷりあるからいいかぁ・・・(笑)

畝立ても「真っすぐ」できるように上手になりました。(笑)

 ところで、筑波大学名誉教授の村上和雄さんが、その著書『スイッチ・オンの生き方致知出版社の中で、「失敗は新しい発見のもとになる貴重な体験」と語っています。抜粋して引用します。

・・何が人を新しいことに挑戦させるかといえば、外から絶えず入ってくる刺激です。

精神的に守りに徹していたのでは、決して新しいものを取り入れることができません。

「守り」の姿勢が遺伝子をオンにすることは、まずありません。

守りとは現状維持であり、いま働いている遺伝子だけで十分事足りるということだからです。

眠っている遺伝子は強く必要とされなければ目覚めてくれません。

だから、「守り」ではなく「攻め」で新しい刺激を求めていくことが大切なのです。

また、よい遺伝子をオンにするために強調しておきたい知恵の一つには、何かに取り組むとき、それがプラスかマイナスか、できるかできないか、効果的かどうかなどといった評価は後回しにして、とにかくやってみるということがあります。

挑戦することを先送りにしていては、決して大成できません。

完璧な見通しなど絶対にないのですから、まずは頭の中で考えるより先に「やってみる」ことが大切なのです。

失敗はそれまでの努力を無駄にするものではありません。

それどころか、新しい発見のもとになる貴重な体験なのです。

今生きている人生以外の選択肢はなかった。

 今日は4月1日。昨日で正式に雇用止めとなり、晴れて「専業農家」になりました。(笑) 職場のlineグループからも退会し、全く自由な生活となりました。そして、農業を生業とする生活の第一歩は、「野鼠との闘い」で幕が開けました。(笑) 昨日蒔いたばかりの種がほじくられ、上手に食べられいました。敵もさるものです。(笑)

ヤられたぁ~~クゥゥ・・( ;∀;)

 ところで、私も今日から新たな人生がスタートしましたが、自分が判断した「この道は最善か」と悩んでしまうものです。橋本京明さんがその著書『1%の幸運を100%手に入れる強運のつかみ方』(大和書房)の中で、「選ばなかったもうひとつの道は、そもそもあなたの人生には存在していない」と言っています。なんか、安心しますよね。(笑)

・・人には必ず人生を左右するターニングポイントが存在します。
どこに進学するのか、どんな働き方をするのか、誰と結婚するのか…。
そのときどきに、自分では「この道が最善」と思って選んではいるのですが、いざ歩み出すと困難な状況が続くことに疲れ果て、「あのとき、もうひとつの道を選択していたら、こんなつらい人生を送らなくて済んだのに…。人生の選択を誤った」と思いがちです。

しかし、本当にそうなのでしょうか?
右の道を選ぶか、左の道を選ぶかによって、人生が大きく左右されるように思えますが、仮にもうひとつの道を選んだとしても、行き着く場所は一緒なのです。
なぜなら、自分で書いてきた台本どおりに人生は進んでいるからです。
もっと言うと、選ばなかったもうひとつの道は、そもそもあなたの人生には存在していないのです。
私たちは、台本どおりの人生を歩むため、選ぶべき道をきちんと選び取って、今ここにいるのです。
選ばなかった人生は、あなたの台本にはなく、実は、今生きている人生以外の選択肢はなかったのです。

それを知らずに、自分に起きた事象だけを挙(あ)げ連(つら)ねて「不幸だ」「運が悪い」などと言っていると、それと同じような結果が返ってきてしまいます。
そうなることに意味があって、あなたが書いてきた台本なのです。
今の状態に不満を感じているなら、それを生み出しているのはあなた自身だということに気づきましょう。

人生は自分がつくっている。
この真実に気づくことができれば、何が起こっても一喜一憂することなく、穏やかな気持ちで過ごせるようになるでしょう。