元気村「村長通信」

自給自足コミュニティ、活動日誌。

この世へ何をしにきたのか

 今日は朝から快晴。気温は22℃。最高でーす。

 六郷地区の稲刈りも進み、本日元気村の米作りを依頼している農家さんから、「試食用の新米(ひとめぼれ)5kg」が届きました。作柄は例年と同じぐらいということでしたが、販売価格はとんでもなく高いとのこと。あまりにも高いので、お得意様に限っては例年と同じぐらいにすると言ってました。まぁ、来年はまた下がるかもしれないので、「今年だけ高くしてもなぁ~」とのこと。良心的な農家さんでした。(笑)

「ひとめぼれ」の新米

 ところで、「生きている限り問題は起こる」のですね。特に「今だけ、金だけ、自分だけ」で生きいる人は、ずぐ問題が起こる場合と、たまりたまって、まとめて「どん」と問題が発生する場合があります。後者の場合は、何が問題だったのか判然としませんので、「なぜ、こんな目に」「なんで私だけが」と悩むことしきりです。(笑) 

 やはり、人生は「帳尻が合う」のですね。人を傷つけても、その場は「勝った」と思ってやり過ごすことができるかもしれませんが、「天網恢恢疎にして漏らさず」です。

 人間は、「自分は何のために生きているのか」をしっかり持っていないと、「今だけ、金だけ、自分だけ」の人生になってしまいます。稲盛和夫さんの言葉を抜粋して引用します。

稲盛和夫 魂の言葉108 (宝島SUGOI文庫)

《死ぬときまでにどれだけ人格、品性を高めたか、そのことだけが人生の勲章であり、事業で成功する、学問で博士号をとる、組織で高い地位に就くなどということはあまり価値がないのです。》

 

俗世間に生きていれば、そこにはさまざまな苦楽があります。

その一切合切を味わい、幸不幸の波に洗われながら、やがて寿命を全うするその日まで、一生懸 命生きていく。

この過程そのものを、自らの魂の磨き石と心得るのです。 

この魂というものは、その人の「生き方」次第で磨かれもすれば、曇ってしまうものでもあります。

いわば限りある人生をどのように過ごすかで、心は気高くもなり、卑しくもなってしまうものなのです。 

それは稲盛氏自身も例外ではなく、だからこそ自らを戒める「儀式」を日課としているそうです。

驕り高ぶって部下を叱った際、あるいは、調子のいいことを言ってしまったとき、自分の努力が足りなかったとき、こういったことを一日の終わりにホテルの部屋や自宅で、反省するのです。

もしくは翌朝目覚めて、昨日を振り返り、洗面所の鏡に映る自分の姿に向かって、「バカモンが!」と厳しく叱りつける。

自然と「神様、ごめんなさい」と反省の言葉が口をついて出てくる。 

稲盛氏にとって、働くとはこうした日々の反省とセットになっているのです。

これは日々、真摯に生きるということが、自らの人間性を鍛えるための修行であることをよく知っているからこそ、行える習慣だと思います。

 

《「この世へ何をしにきたのか」と問われたら、私は迷いもてらいもなく、生まれたときより少しでもましな人間になる、すなわちわずかなりとも美しく崇高な魂をもって死んでいくためだと答えます。》