今日は、明日出荷分の野菜の収穫が終わった後、刈払い機で「草刈り」作業を行いました。雨が降り、気温も高いので伸びること伸びること。野菜よりも生育が早いのでした。(笑)

ところで、仲良くした方がいいのだけれど、自分とは価値観も生き方も大きく違う相手と、なかなか良好な関係を築けない場合があります。そんな時、ティネクト代表の安達裕哉さんが、そのブログの中で「人に共感なんてする必要はない。」と説いています。どういう意味でしょうか? 抜粋して引用します。
・・人の話を聞くとき、多くのシチュエーションで「解決」よりも「共感」が重要なことがある。
しかし、このような話を聞くと「私は人に共感するのが苦手なのですが、どうすればいいですか?」という人が数多く出てくる。場合によっては、思い詰めてしまう人すらいる。
しかし、そんな心配は無用だ。結論から言うと、人に共感なんてする必要はない。なぜなら、共感は、「共感するふり」だけでも十分意味があるからだ。
例えば、こんな会社がある。ほとんどの案件を作ってきているAさん。業績への貢献度から言えば、その人は紛れもないNo.1で、他の追随を許さない。顧客からの評価も高く、その人指名で仕事が来る。つまり、代替可能性が低い仕事をしている。だから、その人は極力、雑用は他の人に任せており、会社では暇そうなときも。
一方で、その雑用を引き受けているBさんは、いつも忙しそうにしていた。ただし、せわしく動いてはいるが、代替可能な仕事をしているだけであり、「その人でないと困る」という事はない。とはいえ、「自分は一生懸命働いている」という自負が彼にはあった。そして、微妙なバランスではあったが、揉め事はほとんどなかった。なぜなら、Aさんが、合理的に行動していたからだ。
具体的には、彼はBさんに対して、いつも「いつも忙しいよねー、わかる、わかるよ。たすかります。」という、共感と配慮を示していた。Aさんの方が、Bさんよりもはるかに会社にとって重要な仕事をしている。しかし、Bさんへのそうした「配慮」が、Bさんの「私だけ忙しい」という不満を減らし、それによって、組織が上手く回っているようにも見えた。
ある時、私はこっそり、そんな微妙なバランスを保っているAさんに聞いた。
「共感力」がとても高いように見えるのですが、なぜAさんはそんなに人に寄り添えるのですか、と。
すると、少し考えてAさんは言った。「共感なんて、かけらもしてないよ。」と。そして言った。「Bさんはいつも、無駄に忙しそうだと思っているし、正直なところ、誰でもできる仕事をしているだけ、とは思ってる。」
私はびっくりした。「じゃ、なんで、あんな優しいことが言えるんですか」。Aさんは言った。「雑用であっても、滞りなくやってほしいから。新しい人に変わると、教えるの面倒だし。」
私はきいた。「という事は、いつもBさんに見せている共感は、演技だという事でしょうか?」
Aさんは呆れたような顔で言った。「共感って、そういうもんじゃないの? そもそも、Bさんが何考えてるんかなんて、わかるわけないでしょ。別に分かりたくもないし、私もエスパーじゃない。ただ、共感しているように見せるだけなら「大変ですね」って言えばいいだけだから、言ってる。」
なるほど。そういうことだったか、と思った。共感力が高いと思われている人にも、2種類いるのだ。一つは、相手の気持ちになれる、本当に共感力が高い人。そしてもう一つが、共感力が高いように「見える」だけの人。
そして、外形的にはこの二つは区別がつかないし、効果も同じなのだ。だが、前者は「共感」しているが、後者は「相手の思考を読んで、対応している」だけ。つまり、AIと同じだ。
生成AIは実に「共感したふり」が上手い。
例えば、シロクマ先生が書いていたが、AIチャットの相談試験の生徒満足度は93%を超えている。多分、人間がやるよりも良いのだろう。
これらは、一般的にはAIの良いところとみなされているし、実際、長所だろう。株式会社ZIAIが千葉県柏市で行った、AIチャット相談試験のトライアルでは、生徒の満足度は93.6%だったというが、その満足度はAIの性質にも支えられていただろう。
そういう点で、「共感」は必要ない、というのは合理的で、「共感しているように見えること」だけが必要なのだ。
実際、私は様々な職場で、「生成AIのような振舞い」であっても、職場ばうまく回れば問題ない、と考える人が、結構多いことを知っている。
「共感力が高いように見えるあの人」が、本当に人に共感しているかなんて、誰もわからないのだ。
どうせ区別がつかないなら、共感は、「共感するふり」だけでも、十分意味がある、と思っても差し支えはない。
「礼儀」の定義を知っているだろうか。礼儀とは、辞書にこうある。「敬礼・謹慎を表す作法」のこと。
礼儀とはあくまで、外形的なもの。作法である。約束事である。相手にとってどう見えるかの「表現」の問題であって、こちらがどう思うかの心持ちの問題ではない。
共感とは所詮、そのようなものであると、私はAさんから学んだのである。重要視しすぎる必要はない。
